―――もう、ずっと永く片恋をしている相手が、いる。
藤臣紫。
幼馴染みと、呼んでよいだろうか。
紫が、まだ目も開かないほんの嬰児だった時分から、一緒に育ってきた。
といって、血のつながりがあるわけでは全くない。
故あって、父が彼を相馬の家に引き取ったのだ。
「貴則様。貴則様―――」
脇目も振らず、一心に自分を追いかけてくる、瞳。
他の者であれば鬱陶しくしか感じられないであろうそれも、紫であれば最早当然のものとして、疑いさえ抱かない。
寧ろ、彼の存在が側に無いことが苛立ちを生み、そんな自分の心の働きに、当初は戸惑いを覚えたこともあった。
―――紫を、私は『自分のもの』と認識していたのだ。無意識の内に。
好きとか嫌いでさえなく。そうあるのが当然と見なしていた。
紫が余りにも私しか見ておらず、そのことを直感で悟っていたことが私をおごらせた。
私が中三、彼が中二だった夏―――
私は、今では後悔しかない卑劣な行いを、した。
「臣」
「はい、貴則様」
呼び声に応じ、僅かに頬を染めて寄ってくる。
常に、そうだ。
いつもいつも、彼は眩しいような目で私を見る。
「何かご用ですか?」
紫の忠誠心は、厚い。
彼が私に背いたことなど、過去に一度としてありはしなかった。
決して、抗わず、逆らわず、私の役に立てることが嬉しくて仕方がない、という顔を、する。
どこまでも確固として、揺るぎない、忠誠。
そう―――忠誠、なのだ。彼が、私に、抱いているのは。
あの時の私にはそれが分からなかった。
紫の逆らわない従順さを好意と履き違え、まだ何も分かってはいない彼を、半ば強引に、犯した。
「貴則、様…?」
怯えさせないように、ゆっくりとその身を腕の中に収めた私に、彼は不思議そうな声を出した。
「お前が欲しい、臣」
「え…」
逃がさぬよう閉じ込めながらも、もしも抗う素振りを見せれば、すぐに解いてやるつもりの、緩い束縛。
だがそれでいて、抵抗など本気では予期していなかった、傲慢な私だった。
「あの、それは、どういう…」
困惑も露な声音に、微笑む。
「お前を抱きたい…と、いうことだ」
「えっ……」
目を見開いて、完全に当惑した声をあげた。
「貴則、様? 僕…男、ですよ?」
言わずもがなのことをわざわざ口にした紫に可笑しくなる。
「それが?」
全く悪びれずに聞き返してやると、沈黙した。
「お前は、私に抱かれるのは、嫌か?」
拒絶など、するはずの…できるはずの、ないことを承知で問いかけてやる。
「そんなこと……っ」
案の定紫は驚いた顔をしてプルプルと必死で頭を振る。
「ならば、いいな?」
答えを促すと、小さな声ではい、と答えた。
その返答を得て満足の笑みを洩らし、腕にスッポリと収まる小さな体を苦もなく抱き上げた。
「あっ!? 貴則様!?」
狼狽する様が、可愛い。
そっとベッドに下ろすと、改めて困惑したように見上げてきた。
「大丈夫だ。お前は何もせず、私に任せていればいい」
滑らかな頬を撫でて宥めてやって、ゆっくりと唇を重ね合わせた。
何度か、重ねるだけのキスをして、緩んだ隙間から中へ忍び入る。
ビクリと震えた後頭部を逃さぬよう押さえ、戦く舌を絡め取る。
「んぅ…」
いかにも慣れない風情で、苦しげな声を洩らす、それさえも甘い。
一度唇を離して、耳元に囁いた。
「臣、鼻で息をしてみろ」
「は、い……」
上がった息で頷くのを見てから、再度口付ける。
角度を探りながら、より深く、貪る。
「ん…っふ」
震えと熱を帯びた鼻声が、驚くほどに艶やかだ。
捕らえた舌を吸い上げ、クタリと力の抜けた体を抱き支えてやりながら押し倒した。
見下ろせば、黒目がちの目は潤み、唾液に濡れ光る唇は扇情的といってよいほどだ。
期待を裏切らない艶姿に、目を細める。
襟元までもきっちりと覆うシャツのボタンを外し、その素肌に直に触れた。
何が起こるのかと、どこか怯えの混じる紫の気を口付けで紛らせながら、ベルトを外し、しなやかな足を包むズボンを脱がせる。
最後に残った下着に手を掛けると、流石に動揺したように不安そうに見上げてくる。それでも、抵抗はしないいじらしさに、胸に温かいものが満ちる。
自分も服を脱ぎ捨て、全裸に剥いた愛しい少年の上に重なっていった。
「臣…」
「っあ」
若葉のように瑞々しい肌に指を滑らせると、見知らぬ感覚に紫は喘いだ。
……可愛い。
何も知らぬ躰に一つ一つ快楽を教え、自分を刻み付け、開かせてゆくのはこの上ない喜びだった。
ほんの些細な愛撫にも、一々ピクリと反応する素直な紫。
ましてや、感じる場所…慎ましやかな胸の左右の突起などは、少しいじってやるだけで、涙を浮かべて背筋を撓らせた。
「あ…あ、貴則…様っ」
「うん…?」
片方は指先で強めに摘み上げ、もう片方は口に含んで舌先に転がす。
「やぁ…っ」
たった、それだけのことに紫は悲鳴をあげた。
「あ…たか…貴則、様…っ、僕…おか、し……っやあ…んっ」
「おかしくないよ、臣。感じているんだ…何も、おかしくないから。力を抜いて、私に任せて…」
まるで、詐欺師が人をだまくらかすようなセリフを連ねて、愛撫に感じ切って切なく震える幼い性器を手に包み込んだ。
「やっ、貴則さ…っ」
びくんっと紫の体が跳ねる。
「あ、あぁっ」
抗うようにそこへ手が伸びてくるので、少し強めに擦り上げた。
のどを仰け反らせて喘ぎ、力の入らぬ手でキュゥッとシーツを握る。
更に2、3度刺激してやると、耐え兼ねたように紫は遂情した。
「あ……」
恐らくは、自慰の経験もないのだろう、紫は慣れぬ射精感に呆然としていた。
クスリ、と笑み。
「気持ち良かったか…?」
訊いてやると、どうしてよいのか分からぬ、といった風に目を伏せた。
もう一度、笑う。
「臣、脚を広げろ」
一度、戸惑ったように私を見上げ、それからおずおずと僅かに隙間を空けた。
「もっと」
何が起こるのか、分からぬなりにその行為には羞恥を掻き立てられるのか、なかなか、紫は十分に脚を広げられなかった。
「もっと、広げられるだろう? できるだけ開いてごらん」
「貴則様…」
全身をほんのりと薔薇色に染め、泣きそうな目をする。
私が黙っていると、必死に恥らう気持ちを堪えて、少しずつ秘部を晒していった。
そこは初々しい桜の色をしており、舐めるような私の視線に感じ入ってか、時折ヒクンと震えた。
「ア…ッ」
まろやかな双丘のラインをなぞると、あえかな悲鳴と共に、キュッと窄まる。
「貴則様…っ」
口許に自然と浮かぶ笑みをはきながら用意の小瓶を取り、片手で栓を外すと中身をたっぷりと手に取った。
その手を、尻の狭間に滑り込ませる。
「あ…冷た…っ!?」
ヒンヤリとした感覚に紫は背を粟立たせた。
「すぐに熱くなる…」
囁きながら、ローションの滑りを借りて秘めやかな紫の内部へと指を侵入させた。
「や、な、何っ…!?」
体内に無遠慮に入りこんでくる異物に、狼狽したように身を捩る。
「た、貴則様…っ、やっ、へん、です…っ、あ、いやっ」
くちゅりと音をたてて中をかき回され、可愛らしく鳴き声をあげる。
嫌、と言われても無論止めるつもりなど、ない。
「あ、ん…っ、ンぁ、はぁん…っ」
追い上げられる感覚を逃がす術も知らず、波間に揺れる小舟のように、身悶える。
初めは指一本を受け入れるのもきつかった蕾が、やがて二本、そして三本と咥え込み、次第に綻び花開く。
奥まった肉襞の一枚一枚を丁寧に、伸ばし広げるように、慣らしてやる。
「やぁ…あ、たか…の、りさ……っ」
ほとんど、正気を手放したような紫の様だったが、それでも最後に一欠片残った理性でか、覚束ぬ仕種で縋るものを求めるように手を伸べる。私を、求める。
霞のかかったような、眼差しは、それでも私を捕らえ。
そこには、大きな戸惑いと共に、私への全幅の信頼が、映る。
……愛しい。
可愛い、可愛い、紫。
物心つくかつかないかの頃から、いつでも私の後を付いて来た。
来いと言ったことは、一度もない。
だがそれで、彼が来ないと思ったこともまた一度としてなかった。
紫が私の傍らにあることは、当然のことだった。私にとっても。紫にとっても。
誰にも譲りはしない…。
彼は私のものだ。私だけの。
縛りは、していない。
だが、もっと大きな枠で、確かに私は紫を囲っていた。
「臣…」
そっと、名を呼んで気を惹き、その手を私の下身に導いた。
「あ…!?」
それは、紫への欲望に膨れ上がり、熱く脈打つ。
その硬さに驚いたように、ビクリと反射的に手を引く。
くす…と笑った。
「分かるか? お前を、欲しがってる…」
「あ…」
カァ、と顔を赤らめる。
「お前の、ここに」
言いながら、くちゅり、と音を立ててまた、嬲る。
「入りたがってる…」
「あぁ……っ」
切なく喘いで、蕩けた秘孔は甘く私の指を締め付ける。
感触を楽しみながら指を全て引き出すと、名残惜しげに紫のそこはヒクついた。
「…どうする、臣?」
「え……?」
しどけなく開かされた体位のまま、潤んだ瞳を向けてくる。
「お前が嫌なら、無理はしない。お前は、どうしたい…?」
体中いじられ、嬲られ尽くして最早一人で熱を冷ますことなどできないのを承知で、私は問う。
昂ぶった体を鎮める方策など、紫が知るわけがない。
「あ…っ、僕…っ」
息は、不規則に弾み、体の心を疼かせる熱にか、時折小刻みに紫は震える。
―――求めさせたかった。
ここまでは、半ば強引に私一人が事を進めたようなもの。
最後のきっかけくらいは、紫から求めて欲しかった。
…所詮、私が誘導したと言われようとも……。
「……臣?」
答えを、促す。
「あ…、い、かせ…」
「何? 聞こえないよ、臣」
かああっと、羞恥に足のつま先まで朱に染まる。
「いかせ、て…っ、下さい……!」
やっと、それだけ言えた紫に、溢れる愛しさのままにその唇を塞いだ。
そして、熱い…紫の中に、ゆっくりと自身を収め始める。
「…っあ、あ…っ、ぁあっ…」
十分に慣らしたつもりだったが、それでも初めての紫には男を受け入れることは相当の苦痛を伴うらしく、固く瞑られた目の端からは涙が零れ、小さな口からはひっきりなしに喘ぎともうめきともつかぬ声が洩れた。
しかし、決して逃げようとは、しなかった。
健気な様に、更に愛しさは募る。どこまでも膨れ上がる。
「臣…」
「貴則様……っ!」
伸ばされた手を受け止め、華奢な造りの肢体を抱き込んだ。
「ああっ…」
それで、更に結合が深くなり、紫は仰け反って喘いだ。
キュウッと私を締め付けてくる。
絡み付くようなその感触は、気が遠くなりそうなほどの快感を呼んだ。
それはただ、肉欲を満たしたということではない。紫だから、だ。
紫を抱いているという事実こそが、何よりも私を高める要因に間違いなかった。
「臣……」
名を囁きながら、ゆっくりと揺すり上げる。
「ひ、ぁ…あ、んく……っ」
中にいるものに慣れる間もないままで、紫が苦しげに悲鳴を洩らす。
苦痛を和らげてやるには、放っておいた前を慰めてやればよかったのだろうが、紫は少し歪んだ泣き顔までも余りに艶やかで、萎えかけたそれに触れてやる気にはなれなかった。
「力を抜くんだ、臣。息を吐いて…」
それに、後ろへの刺激だけでイかせてやりたいという思いもあった。
まだ幼い、性の快楽を知らぬ無垢な紫…。その彼に私の形を覚えさせ、私だけに感じるような躰にしてやりたい。
まるでどこかのエロ親父のような考えだな、と思うと少し笑えた。
私の声を聞いて、必死に紫が息を吐こうとする。力を抜こうとする。
「恐くない…今、お前の中にいるのは、私だ…。私が、お前を傷つけると思うか…? 私を信じろ。決してお前を傷つけたりなどしない……」
肉の薄い背の骨を辿るように撫でてやりながら、言い聞かす。
「あ…貴則、様……」
辛そうにしながらも微笑みを浮かべた紫の唇を軽く啄みながら、また、その身を苛み始めた。
「ああ……っ」
そうして、初めて体を重ねて以来、私は何度も何度も紫を抱いた。
私が求めれば、彼は抵抗なく体を開いた。
私の愛撫に、素直に乱れてみせた。
無茶な要求にも、最大限の努力で応じた。
恥じらいは見せても、一度たりとも拒否はしたことがなかった。
だが―――
彼の方から求めてくれることもまた、なかった。
抱かれることを嫌がってはいない。感じてもいる。
だがそれでも、私が手にしたのは彼の体だけなのだと、私は次第に認めざるを得なかった。
そのことに、最初に気付いたのは大分早い段階だ。だが、信じたくなくて目を逸らした。
心があるからこそ私に身を任せるのだと、信じていたかった。
信じたかった。
愛し、愛されているのだと―――
高校に上がり、私はそれほど強い希望があったわけではないが、生徒会に入った。
誰の眼にも分かる形で力を示すには、それが最も手っ取り早かったからだ。
紫は近頃、蕾が花開いてゆくようにどんどん綺麗になり、以前よりも大人びた表情を浮かべるようになっていた。いつも側近くで見ている私でさえ、時にハッと息を呑むほどに。
艶やかと呼ぶのが相応しい、それを見る度私は胸を騒がせた。
私の紫を、いつか誰かに攫われるのではないかと不安で。
私と紫とは、一才違いだ。いかに紫を側に置きたくとも、この年の差はいかんともしがたく、どれほど望んでも、私は四六時中…24時間1秒の隙も無く紫に付いていることは不可能だった。
そんな中で紫を奪われぬために、私は『誰も紫に手を出せない状況』を作り上げようとしていた。
それには何よりもまず、私自身が力を得る必要があった。
そして高校生活2年目、紫が再び私と同じ学校へと入って来た年、計画通り私は生徒会長という役職を手中にしていた。
高校という場において、生徒という身分で得られる、それは最高の地位だろう。
更に私は、少しでも紫を手許に置きたいが為に、彼にも生徒会役員の地位を押し付けた。
その行為は、入学してきたばかりで未だ広く知れてはいなかった紫の存在を、衆目に知らしめるという意味で諸刃の剣ではあったが、それがなくとも、彼の容姿ではいずれその存在は皆の知るところとなると踏み、それよりは、と私は先手を打つことを躊躇わなかった。
入ってきたばかりの1年坊主を役職につけたことは、周囲との多少の軋轢を招いたが、それは紫が実力で黙らせた。……本人は、そんなこととは露知らぬであろうが。
いかに私とて、能力の無い者を捕まえてそんな無茶は通さない。
そしてしばらくは、平穏な日々が流れた。
相変わらず紫は私の求めを拒まなかったし、抱けばいつでも可愛らしく鳴いてみせた。
自分からは何一つ望まないが、私の言うことには完全に服従した。
自分自身が、紫を自分のものだと確信できない代わりに私は、周りの者へと、紫の所有権を主張した。
考え付く限り、あらゆる方法で。
それはさり気ない素振りで彼に触れる仕種であったり、他の人間に対するのとは、明らかに違う態度であったりした。
可能な限り私は紫を側から離さなかったし、紫もそれを当然として受け入れていた。
だがそこまでしても、私の不安は消えることはなかった。紫を失うことを、滑稽なくらいに私は恐れていた。
鍵のかかった引出しが、ある。
その鍵は、肌身放さず常に私が持ち歩くもの。
大切にしまわれているのは、母の形見の品がいくらかと―――数枚の、写真。
写っているのは、絡み合う、私と紫の姿。
角度は様々であったが、紫に限っては、どれも必ず真横よりもやや後ろ向きに近い。
―――当然だ。彼は、この写真の存在を知らない。
いかがわしいと言われそうなこれらの全ては、私が紫に黙ってしかけたカメラの捕らえたものだった。
一言で言うなら、隠し撮りだ。
日を変えて何本かのフィルムを使い切った大量の写真を、私は1枚1枚手に取り、選り分けた。
…眺めて楽しむために、撮ったわけではない。これも…一つの、手段だ。紫を、手許に留めておくための。
馬鹿なことをしているとは、分かっている。
その愚劣さ、卑劣さを思えば、笑いが止まらなくなるほどだ。
そうと、悟っていても、私は止められなかった。
「臣……」
呟いて、また1枚、写真を抜き取る。
愚かと自覚があるだけに、作業には苦痛を伴う。
こんな私を紫が知れば、彼は何と思うだろうか。
恐れながら、けれども私は彼を失くすことが何よりも恐い。
その恐れこそが私を動かす原動力で、理性で制止のきくようなものではなかった。
どちらに転んでも、私は怯えていて。囚われて。逃れられない。
「メビウスの輪…だな」
自嘲する。
歪んだループ。終わりのない、無限の…。
出口が見えない。…そもそも、出口など本当に存在するのか……。
望んでいるのは単純なこと。
私は彼が…紫が、欲しい。
しかし、そこへと至る道程は暗澹としてまるで先が見えない。
愛しているだけでは駄目なのか。欲しいと思うだけでは駄目なのか。
…確かに、この手の中にあると、信じた日が懐かしい。
今では到底思えない。
掴んだはずのものは、知らぬ内にスルリと指の間を零れ出していた。
否。
きっと最初から、手に入ってなどいなかった……。
そして訪れた、破局。
少し前から紫の様子がおかしいことには気付いていた。
その陰に垣間見える、“誰か”にも。
だが、彼はそれを言わなかったし、触れられたくもなさそうであったから…私は、口を噤んだ。
問い詰めることは容易い。
しかし私はその結果を知るのが、恐かった。
真実を、突き付けられるのが。
逃げても事実は変わらないと、頭では分かっていても。
可能な限り目を逸らし続けていたかった。
臆病を嗤う、もう一人の自分の存在を感じながらも……。
「あ…ぁ、ンッ……」
体の下で、紫が艶かしく喘ぐ。
初めて抱いた時の、何も知らない無垢な幼子はそこにはもういない。
いるのは、感じることを知り、快感に泣くことを覚えた……性奴だ。
恋人と、呼べぬ存在…だ。
身体を使って、主人に奉仕する……。
「んん…っ、貴則様……っ」
それが証拠に、紫はこんな時でさえ、私を「貴則様」と呼ぶ。
決して対等ではない、私に、従う、モノ。
そんなものが欲しいわけではないのに。
そんなものしか、手には入らない……。
そして、「そんなもの」であっても手放せない自分を私は嗤い、無意味な行為に没頭する。
―――しようと、した。
……え?
知り尽くしたはずの紫の身に、見覚えのないものを発見して、手が止まる。
時が―――止まる。
斜めに顎を反らした紫の、耳朶の裏側。
普通にしていれば、丁度少し長めの襟足に隠れるであろう部位。
遺された、紅い、痣。
明らかに、自分がつけたのではない…朱の、刻印。
「あ…? 貴則、様……?」
動きの止んだことを訝る様子に、条件反射的にその肌を撫でたが、頭は今目にしたもののことでいっぱいだった。
半ば隠すように、半ば、見せ付けるように、刻まれた証…。
実を言えば、私自身もつけたことのある、所有印。
外から見えるところにキスマークをつけないのは暗黙の了解であったが、一度だけ…、紫には見ることのできない、項の後部に痕を残した。
触れ合うほどに近付いて、見えるか見えないか、ギリギリのラインに。
けれども、これは……。
私に、見せる為、だ。
不特定多数の誰か、ではない。
紫を抱く、彼の上に君臨している私に、見せ付ける意図を持って残された、モノだ。
でなければ説明がつかない。
余程でなければ、見る者などあるはずもない場所なのだ……。
「臣……」
きっと彼は、気付いていない。
このまま、私も気付かぬ振りをすれば、均衡は保たれる。
何も…変わらないままで、過ごしてゆける。きっと……。
だが、私はもう、限界だった。
心のない彼を抱くことに。
心がないと、気付いていながら知らぬ振りをすることに。
疲れ果てて、いた。
傷ついている自分を誤魔化し続けることに……。
「臣、お前…」
だから、私は…。
「私に何か、隠していることがあるのではないか?」
引き金を、引いたのだ……。
危ういバランスの上に保たれた現状を知りながら。
それが、全てを壊すことになると、気付きながら……。
崩壊を手繰り寄せる最初の一石を、自ら投じた。
しかし、そんな私に紫は、目を、見開いてみせた。
「え……?」
さも、心外と言わんばかりに。
「そんなこと…何も、ありませんよ。どうか、なさったんですか…?」
淡い、彼らしい微笑み。
控えめで従順な、しかししどけない姿の今だけはどこか、婀娜めいた。
騙されたく、なる。
「そうか…」
まやかしと、知りながら。
「どうも、しない……」
縋りたく、なる。
「あ…は、んぁ…っ」
鮮やかに濡れた、甘い鳴き声。
「貴則…様、たか…」
身を焦がすような、掠れた呼び声。
揺れる眼差し、震える吐息。
愛されることを覚えた、幾度となく私を受け入れた、熱い…躰。
爛れた夜の静寂の中で、ただ私の心だけが、冷たく凍り付いていた。
どれほど抱いても、抱き締めても、少しも温もることなく。
「アア……ッ」
泣くような悲鳴とともに、今宵もう何度目になるか分からない、幾分透明度の増した液を、吐き出す。
「たか…のり、さ…。も、う……」
辛そうに頬を歪めて、紫は懇願した。
過ぎた快楽は既に、苦痛でしかなくなっているのだろう。
「ど…か、もう…。お…ねが…です」
けれど、それでも私は止めてやることができなかった。
温もりを求めて、彼の躰をまさぐり続けた。
「んっ」
色めいた喘ぎを洩らしながら、眼の端から涙を伝わらせた。
寄せられた眉根が痛々しい。
哀れむ気持ちは十分に持ちながら、しかしそれも他人事のようにどこか遠く。
口付けを交わすことが、恐くなったのはいつからだったろうか…。
返るもののない想いに、気が付いたのは……。
そんなことをぼんやりと、考えていた。
終わりに、しよう―――
涙の跡を白く浮かび上がらせたまま、眠る紫を、見詰める。
もう、終わりにしよう。
これ以上は、無理だ……。
何も言わない紫。
きっと彼には、言えない。紫は私を、拒めない。
…知っていた。
知っていて、利用した。
先のないことなど、いやというほど分かっていたのに……。
紫の恋人の存在が、心に痛い。
自らを、ひっそりと刻み付けずにはいられなかったその想いが、心に痛い。
どう思ったことだろう。
紫と心を重ね、体を重ねていながら、その間を不当に侵す、私の存在を知って。
終わりに、しよう。この歪んだ関係を。
解放してやろう。私の宝物を。
自由にしてやろう。私のものではない、大切な宝物を……。
翌朝目覚めた紫に、私は告げた。
「お前はもう抱かない」
唐突な言葉に、呆然と動きを止める、紫。
何か、私の機嫌を損ねたのかと不安がる彼に首を振ってやり、そして、最後の、幕を引く。
「今まで、ご苦労だった」
好きでもない相手―――それも、同性である私に抱かれることが、彼にとってどれほど負担なことであったか。
今はまだ、呆然としているだけだが、その表情がやがて安堵に変わってゆくのを見たくなくて、私は背を向ける。
紫は、そんな私を引き止めようと、しなかった。
別れの日から、紫は徹底的に私を避けるようになった。
…覚悟は、していた。
私から切り出したこととはいえ、紫にしてみればさぞかし気まずい幕切れだったことだろう。
それを神経のこまやかな彼が、気にしないでいられるわけはなかった。
私は…、安堵と寂寞の絡まり合った、複雑な胸中だった。
紫が私のものではないという現実を、見せ付けられるのはやはり、怖かった。頭では分かっていても、実際にその姿を目にして、平静でいられる自信はなかった。
好きだから。
彼の想いが自分にはないと知っていても、それでも好きだから。
けれども…。
逆にまた、好きだから、会いたいとも思ってしまう。
最早、触れることも叶わぬ存在であっても。せめて、見詰めていたいと、思ってしまう。
未練、だ。
無様だとは自覚しても、紫に関して私に余裕など、ない。
……なかった、と言うべきなのだろうが。今となっては。
それもこれも、全ては過去でしかないと、認めるのはまだ無理だった。
まだ、体には彼を抱いた感触が染み付いている。
彼への想いが、全身に息づいている。
当然といえば当然のことではあるが…。
何しろ、紫と一緒に成長してきた感情だ。紫がこの世に生を享けてから過ごしたのと、ほぼ同じだけの時を経た、感情なのだ。
ずっと、側にいた。
仮に恋愛感情を抜きにしたとて、寂寥感は否めるものではない。そして確かに、私は彼を愛しているのだ……。
手放したく、なかった。
本当を言えば、なりふり構わず縋りついてでも、手許に留めておきたかった。
たとえ生涯、心を手にすることがなくとも、手を伸ばせば届く距離に、置いておきたかった。
それは間違いなく本音だ。
しかし同時に、そんな関係にどうしようもなく傷ついていたのも、紛れもない真実だった。
私は、紫が欲しい。
何もかも、全てが欲しい。
全てが手に入らないのなら、その体だけでも…。
けれど、心がないなら意味はない。
それでも……!
そんな、千々に乱れ、相反する想いの全てが、嘘偽りなく本心だった。
どうしようも、ない。
両立し得ぬ矛盾を抱え込み。
それらを整合させることのできぬままに私は断を下した。
―――否、下さざるを得なかった。
その理由は、紫のため、だ。
それまで私は自分の事しか見えていなかった。見ようとしていなかった。
紫のことなど、何一つ気にかけてやれていなかった。
その事実を眼前にまざまざと突き付けられ、初めて私は気付いた。
紫が欲しい。
心が欲しい。
心が無くとも、その、体だけでも…。
欲しい、欲しい、欲しい……。
そう思う、その全てが自分だけのわがままに過ぎないことに。
そこに、紫の意志……望みなど、欠片も入ってはいないことに。
自分のためといえば、答えは揺れ惑う。だが、紫のためと見れば、正解ははっきりと見えていた。
目を背けることさえできぬほど、はっきりと…。
紫のため、というのがキーワード。
その故に私は心を決めたのだ。
こうして今なお無様に揺らぐ、心許ない決意ではあったが…。
紫の相手というのは、ほどなく知れた。
人の噂にもなっていたし、ほとんど紫と顔を合わせぬ中でも時折は私自身、その姿を見かけた。
正直なところ、それは思いがけない人だった。無論、誰であれ私に口を挟む権利などないことは承知しているが…、それでも、意外の念は禁じ得なかった。
その人物のことは、私もよく知っていた。むしろ、紫よりも私の方がよく知っていただろう。
彼は昨年の生徒会副会長で、言ってはなんだが余り優秀でなかった会長を完璧に補佐する姿は印象的だった。私も同じ生徒会の書記を務めたから、その有能さは自分の目で見知っている。
だが…。
有能ではあるが、人と争うことを嫌う性質だと思っていた。
今期の生徒会役員選挙においても、そうだ。彼は私が会長に立つ気でいることを知るや否や、あっさりと降りたのだ。学校中の大勢が、次の会長は彼だと目していたにもかかわらず。
負ける戦はしない主義なのだ、と彼は笑っていたが、そう言われるほど私が絶対的優位にいたわけではなかった。それどころか、あの時点では彼の方が有利な立場にいたはずだ。
私自身、能力をアピールしてはいたし、未来の生徒会長として実力は認められつつあったものの、それは飽くまでも先の話。いずれそうなるだろう、という意味であり、入学して一年に満たないでの会長立候補は博打にも似た側面を持っていた。
当然、立つからには負ける気がなかったのは事実だが、譲られたとまでは言わないまでも、彼が勝負を避けたことで労せずして勝ちを拾ったという見方はできるだろう。同時に彼は生徒会そのものに意欲を見せなかったため、私は有能な人材を一人手に入れ損ねたとも言えるのだが。
その、彼が。
波乱を望まない、平和主義…悪く言えば、事勿れ主義であるところのはずの人が、何故。
第一、紫との接点がない。
それが一体どうして……!?
考える。
紫に対する私の執着は、彼とて知っていたはずだ。
たとえ久しく話すこともなく疎遠になっていたとしても、彼ほど勘の良い人ならば、多少なりとも無茶を押し通した私の行動の全ての理由が紫にあることくらい、難なく悟っていたに違いない。
つまり、紫にちょっかいを出せば私が黙っているはずはないと分かっていたはずなのだ。
なのに、何故!?
……現実には、指をくわえて見ていることしかできないのは、私の方だったけれども……。
今更考えても意味のないことだと分かりつつも、頭から離れなかった。考えずには、いられなかった。
その時は、珍しく彼は紫を連れておらず、一人だった。
前から歩いて来るその人の姿に気付いて私は内心動揺したが、だからと言って不自然に進路を変更することもできず、努めて心をよろい、表情を繕った。
彼の方も特に何の感情の見せない無表情を保っていたが、それが作られたようだと感じるのは決して私の自意識過剰ではなかったはずだ。
そして。
すれ違い様。
「愚かだね、キミは…」
視線も合わせないままに、流れてきた言葉。
咄嗟に立ち竦む。
思わず幻聴かと疑うような。それは、微かな。
だが、それと納得するには、無視しがたい響きを含んで耳朶を打った。
飽くまでも低く、しかし切り取られたようにくっきりと。
幾許かの自失の後に、ハッと振り向くが、件の相手は既に完全な後ろ姿だった。
声を、かけようとして唇の乾きに気付く。
結局、かける言葉を拾い切れず、拳を握り締めて行き過ぎる姿を見送った。
どういうことか、と、問い詰めたい気持ちはある。
だが、分からないという、それも含めての「愚か」という表現なのだと察せられた。
愚か…。そう、私は愚かだ。
認める。認めざるを得ない。
紫の幸せを願っている。
その気持ちに偽りはない。
だが、それでも私は、彼を諦めることができない。
紫の幸せが私と共にはないことを、頭では理解しているのに、感情が、ついてこない。
未だに彼を望んでいる。彼が欲しいと望んでいる。
それを愚かと呼ばずして何と呼ぶ…。
…そう、分かってはいるのだ。
分かっていても、理性で制御はきかない…。
「あなたに、何が、分かる……!」
手放すだけで、精一杯だった。
この上、今すぐ想いを殺せと…!? できるものなら、とうにしている!
言われるまでもない、今なお紫を思い続けることの無意味さ、愚劣さなど自分でよくよく承知しているのだ。
分かっていて、それでも想いは消せないから…!!
苦しい、のだ。忘れられるものなら私とて忘れたい。
そうできたなら、どれほど気が安らぐだろう。
「何が…分かる……」
私が、どれほどの覚悟で紫を手放したか。
失えないものを、まさに我が身の一部を引き裂くようにして解放したのだ。
それをああも容易く評されて、私は憎しみをさえ、抱いた。
紫は相変わらず私に会うことを恐れているようだった。
私は痛みを噛み締めながら、それでも彼がそう望むのならばと、ささやかながら手を貸してやる。
即ち、今では数少ない私と紫との接点である生徒会の仕事を、可能な限り肩代わりしてやったのだ。少しでも、私と顔を合わせる機会を減らせるように。
元々、生徒会会計というのは私が無理矢理彼に押し付けたようなものでもあったし、それくらいは当然だろう。
他にも紫のためならばどんなことでもしてやりたかったが、私にできることといえばそのくらいしかないのが現実だった。
だがそれさえも、本人が知れば責任感の強い彼のこと、職分を侵す行為として間違いなく謝絶を受けるだろう。
だから、彼には知られてはならなかった。
紫のため、というが、実際のところは自分のためだ。自分が、紫のために何かしてやっているという虚栄心を満足させたがっているだけだということは分かっていた。
分かっていたからなおのこと、紫に知られるわけにはいかなかった。
しかし、隠し事というのはどこからか洩れるのが常というもので。
その日、私はさすがに溜まった疲れのせいか、迂闊にもそこで意識を手放していた。
時間にして5分か、10分か…いずれにしても、そう長いことではなかったと思うのだが、そんなことは慰めにも、ましてや言い訳にもならない失態だった。
私は、こともあろうに生徒会室で眠っていたのだ。机上に会計書類を、広げたままで…。
何かが、唇に触れた感触がして、私は目を開けた。
そしてそこに、紫の姿を見る。
「……臣……?」
まだ、夢見心地だった私の呟きに反応した彼を見て、急速に意識が醒まされる。
「待て、臣!!」
叫びは、だが既に時遅く、紫は私から逃げるように身を翻していた。
後を追おうと椅子を蹴倒すようにして立ち上がりはしたものの、起き抜けの急激な動作にクラリと軽い目眩を起こし、私は机に手をついて体を支えた。
その間にも紫のパタパタと軽い足音は容赦なく遠ざかり、やがて、届かなくなった。
目を瞑ってそれを聞き届け、諦めの吐息をついて私はかけ直す。
それから、やりかけていた書類が姿を消しているのに気付き、思わず顔をしかめた。
紫、だろう。
自分の担当のものだと気付き、持ち去ったのに違いない。
背もたれに体重を預けて天を仰ぎ、ふーっと深い息を吐き出した。
ふと思い付き、手を上げ、指先で唇に触れてみる。
多分…キス、だった。
僅かに、かすめただけのものだったが。
…礼のつもりなのだろうか。
思って私は苦く笑った。
たとえなんであれ、紫からの初めてのキスに喜ぶ己を自嘲する。
―――構わないと、思った。それでも。
同情でも、憐憫でも、くれるというならもらっておく。
紫……。
目を閉じ、脳裡に愛しい少年の姿を思い浮かべた。
隙を、見せるな、紫。
私はまだ、お前を諦められていない。完全に思い切ることなど、永遠にできないのかもしれない。
だから…。
だから、紫。
私に、隙を見せるな。
お前にとっては他意のない行為でも、もたらす結果は私にさえ分からない。
笑え、紫。それとも…お前は嘆くか?
だが、私はもう、変われない。お前へのこの想い、抱えたまま、生きてゆく。
そうして私は、自分の中にある不毛な紫への恋情を、それでも譲れないものとして受け入れ、認め、その愚かしささえもが自らを構成する一部分であるのだと受容したのだった。
それからというもの、私は紫を避けることをやめた。
紫の方はそんな私のことなど知る由もなく、変わらぬ態度で過ごしていたから、表面上私達の関わりに変化はなかったが。
けれども私は、紫を見ていた。
以前のように、どんな一瞬も見逃さぬようしっかりと。
以前と違って、誰にも気付かれぬようひっそりと。
その中で、私は次第に不審を抱くようになっていた。
これまでは、自分の感情を御するのに手一杯で余裕がなく、気付くことがなかった。
だが、実を結ばない紫への想いをそれでも認め、否定することを止めて今、私の心境は奇妙に凪いだものとなっていた。
だから、気付いた―――紫が、おかしいと。
紫は今、恋人と付き合っている、はずだ。
私とのように強制された関係ではなく、彼の意志で…、彼が望んで、そうしている、はずなのに。
何故…だ……?
幸せなのではないのか!?
愛し愛されていて、どうしてそんな辛そうな顔をすることがある!?
そう……紫は、辛そう、だった。いつ見ても寂しげな、儚い微笑を浮かべていた。
何故だ!?
問い詰めたい衝動を制するのにはいつも相当な精神力を必要とした。
それをできない己の立場が、見る間にやつれてゆくのをただ見守るしかないことが、どうしようもなく歯痒く、身を切り刻まれるような思いがした。
「何を…している……!」
あの人は…、紫を手に入れたあの男は、一体何をしているのだ!
紫の様子に気が付かないのか!?
側についていながら、どうして紫にあんな顔をさせる!!
悔しい、と思った。
紫を救ってやる術のない自分の無力が、途方もなく口惜しかった。
どんなに想っても、彼が必要としているのは自分の助力ではないのだ。
何も、できない。してやれない。
「…くそっ……」
ギリリと唇を噛み締める。
どうすればいい…? 紫に、胸をかきむしられるような、あんな表情をさせないために私には何ができる?
紫本人に近付くことは、できない。とすれば、何ができる?
…紫がだめなら、もう一人の当事者に聞くほかない。
その結論に達するのには大して時を必要としたわけではないが、実行に移すにはまた別の問題が立ちはだかる。
なかなか、彼が一人になる時を見出せないのだ。
大抵紫が側にいるか、でなければ他の友人と談笑していたりする。
まさか、見ず知らずの他人の前で込み入った話のできるはずもなかった。
確実に弱っていくような紫の様子にジリジリとしながら、それでも私は機を窺っていた。
この頃、私は表面上平静を装いながら、あまりに何もかもが思い通りにゆかぬことに苛立ちを抑えられないでいた。
「臣……!?」
「あ…お久し振り、です……」
だから、出会い頭に衝突しそうになった際のどこか間の抜けた紫の対応にさえ、過剰に反応してしまった。
「何を言っているんだ」
そんなにキツく言うことはあるまいに、気がつけば責めるような言葉を吐いていた。
そのくせ、久し振りの接触に心を浮き立たせ、浅ましくも掴んだ紫の細腕を放せずにいる。
更に私は紫の額に手を触れた。
「お前、真っ青だぞ。大丈夫なのか? 熱は…無いみたいだが……」
言い訳がましいことを口にしながら。
半ば以上口実のようなものだった私のセリフだが、実際紫は体調が思わしくないようで、ぼうっとしてされるがまま、まるで抵抗を示さなかった。途中まで。
「だ、大丈夫です! なんでもありませんから……!」
それをいいことに、離れようとしない私にようやく我に返って、彼は慌てて私の手を避けようとした。
反射的に、なお力をこめて握り直す。
「なんでもないわけがないだろう、そんな顔色をして……」
見れば見るほど、紫は本当に血の気の薄い肌色をしていて、なんでもないというそれに頷くことは到底不可能なことだった。
「保健室へ行こう。少し休ませてもらえ」
弁明を聞かず、強引に連れようとしたが、紫も意外に頑強に抵抗した。
「だ、大丈夫ですから…! 本当に、大丈夫なんです」
「臣!」
いつも、私にだけは従順だった紫からの思いがけない反抗に焦れたせいか、自分でもたじろぐほど強い声が出て、捕らえた少年をひどく萎縮させてしまう。
「…余り、手間をかけさせるな」
自分一人律し切れない不甲斐なさに自己嫌悪を抱きながら、なるべく穏やかに響くよう気を遣って、言った。
だが、作った声音はその分だけ感情に乏しく上滑りするようで、なおのこと情けなくなる。
「あ…じゃ、あ…あの、自分で、行きますから……」
案の定紫もそれを敏感に察し、妥協案を提示した。少しでも早く、私から逃れたいというかのごとく。
「……駄目だ」
私は、頷くべきだったのだと思う。それは、分かっていた。
本人が行くと言っているのだから、それ以上私がつく理由は何もない。
分かって、いても、私は彼の手を放せなかった。
「臣、お前…本当に酷い顔色をしているんだ。自覚はないのか? 保健室に行くのをきちんと見届けないと、目を離す気にはなれん」
言いながら、屁理屈だな、と自嘲する。
顔色の悪いのは事実だが、握った手を放さないのは、私が紫と別れ難く思っているからに他ならない。
しかし、紫はそれを真に受けたようだった。
「あ…大丈夫、なんです、本当に…! ここのところは、ずっと、こんな感じで…」
私の表情を窺いながら、しどろもどろと言い募る。
「ずっと……?」
そう……。自分でも言うように、紫は最近ずっと、青白い顔をしている。
それを私は知っていたが、この場はたった今その事実を知ったかのごとく装った。
そしてこれは本当に、今見付けた朱のあざへと手を伸ばす。
「臣、お前……」
スラリと伸びる項に残された、朱い、朱い…刻印。
本当に…紫は、体を交わしているのだな…。
また、思い知らされる。もう、これ以上傷つくことなどないだろうと、何度も何度も思いながら、その度新たな痛みを知る。
「お前、こんな体で抱かれているのか…?」
「あ…っ」
触れると、撃たれたかのように紫はビクッと震えた。
情事の名残を他人に指摘されることほど気まずいこともまたとはあるまい。
紫は、いたたまれない風に忙しなく目を泳がせる。
「あの男……」
紫を怒っているわけではないのに、おどおどとする様が神経をざわつかす。
「…行くぞ!」
理屈の通ったものも、八つ当たりでしかないそれも、いっしょくたにして思い描いた人へと怒りを向け、私は無理矢理紫の手を引き歩き出した。
紫を送り届け、先生に後を頼むとすぐに私は踵を返した。
これ以上、黙ってはいられない……!
幸いと言ってよいか、今なら確実に紫もいない。
…そう、私が向かった先は紫の恋人のところだった。
「…相馬会長? どうしました?」
三年の教室に単身乗り込んだ私を、なぜか副会長が目を丸くして出迎えた。
…そういえば、彼は先輩と仲が良かった気がする。
「先輩と話したいことがある…。済まないが、外してくれ」
「それは、構いませんが…」
了承を返しつつ、解せぬ、という風に眉をひそめる。
「お前、どうしたんだ…? 顔が恐いぞ」
私と同級の副会長は、時によって、敬語を使ったり使わなかったりする。というより、敬語の方はあまりにも丁寧な紫の喋りに洗脳されてしまったのだと言っていた。確かに、一年の頃は普通に会話していたと私も思う。
「…話をさせてくれ」
訝るそれには答えることなく再度求める。
「話はいいけれど、僕らの方が席を外そう、相馬。こんな所でするような話じゃないんだろう、きっと?」
戸惑う彼の肩をポンと叩いて宥め、先輩本人がそう言った。
誰に対しても絶やさない笑みが、明るい声が、白々しく感じられてならない。
「そうですね…」
実際、人気のある場所で声高に会話するような内容ではない。
大人しく同意し、行こう、と言って先に立つ後へ従った。
「じゃあ、また後でな」
軽く手を振るのに応じて、会釈で見送る視線を感じながら前を行く背中を追う。
ゆっくりとした足取りながら迷いなく歩を進め、私が一体どこまで行くのかと思い始めた頃、彼は足を止めてスッと向き直った。
「ここでいいかな?」
本当に、まるで人気のない裏庭だった。
「構いません」
場所など、どうでもよいのだ。私にとっては。
硬い、私の応答に彼は肩を竦めた。
「じゃあ、聞くよ。話って何?」
切り出しておいて、彼は自分でクスッと笑った。
「大体想像はついてるけど…ね」
人を小馬鹿にしたようなそれを、意識せぬよう自分に言い聞かせながら、口を切った。
「藤臣…紫のことです」
「やっぱり?」
何が可笑しいと言うのか、顔を伏せてクックッと笑い出す。
「何を…笑うことがあるんですか」
不愉快、だった。私でなくともそうだろう。
こんな人だったろうか…?
知らず、眉間に皺を寄せていたことに気付く。
こんな風に、意図的に人の神経を逆撫でして楽しむような、そういう悪趣味なことをする人ではなかったと思ったが…。それとも、私の眼鏡違いか…?
思い、いや、と私は否定した。
私はともかく、仮にも紫が選んだ相手だ。そんな人と思いたくはない。
だから…、これは、何か、考えあってのことなのだろう。
そう解釈して、私はこらえた。
と言っても、元々はらわたは煮え繰り返っている。そこへ今更些細な要因が一つ加わったところで大差ないだけのことだ。
ふと気が付けば、彼はいつの間にか笑い止み、硬質な視線でじっと私を見詰めていた。そんな風に見詰められる心当たりのない私は、少し、たじろぐ。
フッと微笑って彼は目線を外した。
「…やっと、来たんだな。いつ来るかと思ってた……」
まるで、来訪を予期していたかのような――否、事実、予期していたのかもしれない――言葉に、目を見張りながら眉根を寄せた。
「どういう、意味です?」
「言葉通りさ」
肩を竦める彼には、まともに受け答えをする気などさらさらないように見える。
じりじりとした焦燥感に、じっと耐えた。
「私が言いたいことは既にご承知のようですので、単刀直入に言わせて頂きます」
「どうぞ」
ヒョイと片眉を上げ、余裕げにごく軽い答えを返してくる。
こちらばかりが逸っていることを思い知らされるようで、苛立ちが募る。
それでも、冷静さを失っては負けだと思い、懸命に自分を抑えた。
「彼を、大事にしてやって下さい」
「してるつもりだけど?」
間髪を入れず、しゃあしゃあと答える彼に一瞬殺意さえ芽生えた。
よくもそんなことが言える…! 大事にしている、だと!?
…たまらない。
湧き上がる怒りから来る、体の震えを感じる。
「あなたは…! あなたは、今、藤臣がどんな状況だか分かっているのですか!?」
痛々しいほどに蒼ざめ、哀しい感じの微笑を浮かべる紫を思うにつけても胸が締め付けられるように苦しくなる。
「知ってるよ…。君に言われるまでもなく、ね…」
不愉快そうに口許を歪め、私の剣幕を避けるように顔を背ける。
「ならば何故、もっと労ってやらないんです!?」
「ふぅん…。キミには、よっぽどボクが紫を粗略に扱ってるように見えてるみたいだね」
感心、とでも言いたげに、皮肉っぽく二、三度一人、頷く。
限界、だった。
「違うとでも言うつもりか!?」
わなわなと震える拳を握り締めて詰め寄る。
「つもりも何も、事実だからね。ボクは紫を大事にしてる」
どこが、だ……!!
「…貴様、臣の何を見ている!?」
大事にしているというなら、何故紫があんな風になるはずがある!? そんなはずがないではないか!!
「あれほど弱っているものを、更に無理をさせて…一体臣をなんだと思っているんだ!!」
「大切な人だと、思っているよ…」
私が怒りを滾らせれば滾らせるほど、彼は逆に冷めていくようだった。
「ならばあのザマはなんだ!? 臣をあそこまでメチャメチャにしておいて…大切が聞いて呆れる!」
それが一層腹立たしくて、私の怒りは止まるところを知らなかった。
「…キミには、関係の無いことだ」
そして、冷めてはいても、強さにおいて全く劣ることのない眼差しが激情に更に油を注ぐ。
「キッサマ……!」
最早感情は私の手を離れて暴走する。
衝動のままに私は両手で胸元を荒々しく掴み、その身を自分に引き寄せた。
「関係が無いだと……!? 冗談じゃない!!」
確かに、肉体関係は清算した。だが、他人にそれを指摘されることが、これほどの…目も眩むほどの激昂を呼び覚ますとは。
たとえ関係のない第三者にであっても、紫とのつながりを全て否定されることは耐え切れないと自覚する。
「臣は、大事な家族だ……!」
家族―――恋人という位置を勝ち得た相手に向かって唯一、主張の叶う立場。
恋人というあまやかな響きに比べて遥かに絶対的で、そして、そこに私の想いを委ねるにはあまりにも、穏やかな―――
「呆れるのは、こちらだ…」
割り切れない心中の葛藤を見抜いたかのように、嘲りを瞳に宿す。
「家族だと…? 本気でそんなことを思っているのか?」
……ように、ではない。完全に、見抜かれているのだ。
そうと、悟った。
家族という立場に甘んじることを納得などできないでいること、今なお紫に未練を残していること、それら全てを、この目の前の人は知っているのだ、と―――
「……放せ」
返す言葉なく立ち尽くし、知らずの内に力も抜けた私の腕を軽く振り切る。
そして改めて向き合い、一言一言を刻み付けるかのように、彼は、言った。
「…呆れるのは、こちらだ。あのコが何に苦しんでいるのか、知りもしないクセに…」
憎悪を思わせる、視線だった。
更に彼は、そんな私の感覚を言葉でもって、口調さえも変えて肯定する。
「ボクはお前が憎いよ、相馬」
それでも、そうはっきりと口にされるのは衝撃だった。
憎んでいるのは、むしろ私の方…だ。その、はずだ。
何故と言って、過去はどうあれ、今は彼こそが紫の側にいるのだ。これほどまでに強く憎まれる理由がどこにある……?
「……だけど、それはお前が思ってるような理由からじゃない」
私は、疑問が表情に出ていたのかもしれない。
「お前が紫を、苦しめるからだ」
できの悪い生徒を疎ましがるように、彼はプイと顔を背けた。
その、向けた先に何かを見つけて息を呑む。
「紫…」
ごくごく小さな呟きではあったが、確かにそう聞こえ、私もまた背筋を強張らせた。
「おいで、紫」
その様子をチラリと見、これ見よがしに呼び寄せる。
私のことを気にかけながら、それでも紫は素直に従った。
……何も、言えない。
奥歯を強く噛み締める私へと、更にあてつけるように彼は紫を抱き寄せ、驚いて身を竦ませるその唇を―――奪う。
眼前で繰り広げられる激しい口付け。
「…ンッ……ぅ…」
紫の濡れた声があたりに響いたとき、理性が、潰えた。
その後の数瞬間、私には定かな記憶がない。
人を殴った手の痺れ、紫の悲鳴、血を拭うその人の手の動き…そんな一切を、どこか遠く感じていた。
「…なんてことをなさるんですか!!」
再び明確な自我が戻るのは、紫にそう、言われた時だ。
我に返ると同時に、迷うことなく紫が彼の側についたことに、またしても、ムラムラと怒りが湧き起こる。
「臣! 何故そんな男を庇う!? お前のことなど少しも考えていない、そんな男など……っ」
「そんなことないっ!」
感情のままに溢れ出す言葉を、紫が真っ向から遮る。
いつも私の後ろに控えていた、紫が。
いつも私に従ってきた、紫が。
「そんなこと…ありません。先輩は、僕のことを、考えてくれています。悪いのは…僕なんです……」
今、正面から、私と向き合っていた。
「臣……」
私の翼下で大切に大切に守り育ててきた掌中の珠は、いつのまにか自在に飛び回る自分自身の翼を生やしていた。私と対峙する毅ささえも身に付けて。
私の敗け―――完敗、だ。
「…ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。でも…僕と、先輩のことです。どうか…もう、放っておいて下さい……」
それが、最後通牒だった。
『…ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした』
『先輩は、僕のことを、考えてくれています』
『僕と、先輩のことです』
『悪いのは…僕なんです……』
頭の中で、紫の声が、何度も何度もリフレインする。
やめろ。もう、聞きたくない―――!
拒む私を嘲笑うかのように、ますます記憶は鮮明になってゆく。
『もう、放っておいて下さい……』
紫……。紫―――!!
涙は、流れなかった。涙も出ないほど…、完膚なきまでに、うちのめされていた。
壊れそうだ。心、が。
油が切れ、さびの来た古いミシンのように、身動ぎする度、ギシ、ギシ、と軋んだ。
紫が好きだった。愛していた。いいや、そんな言葉では到底足りない…。
私は彼を、必要としていた。彼は、既に私の一部と成り果てていた。
けれどもそれは、私にとって、だけの、話―――
紫に、私は、必要ない。必要ないばかりか、私は、彼の妨げとなっている…。
とてつもなく痛い認識だった。
私にとって紫を失うということは、半身をもぎ取られるにも等しいことだった。紫なしでは生きている意味さえ見出せない。
空虚だ。あるべきものが失われた心の中には何もない。
喜びも哀しみも怒りも嘆きも、その源となるものなくして湧き起こるはずもない。
ただ埋めようもない空隙がそこにぽっかりと深淵な闇を覗かせるばかりだった。
コン、コン。
遠慮がちに扉を叩く音に、ふと我に返った。どれくらいの間、放心していたのだろう。
チラリと視線を走らせた先の時計の針に、思わず自嘲を洩らしながら、私は応えた。
「どうぞ」
私は、いつも、部屋に鍵などかけない。かけるのは、唯一、紫を抱くときだけだ―――
未練じみたことを、また、思いながら私は訪問者に対して背を向けたまま目を瞑っていた。
だから、やって来たのが誰か知らずに彼を、部屋へと招き入れていた。
「失礼、します…」
紫、を―――
その声を、私が聞き違えるはずがない。
信じられぬ思いで、私は背後を振り返っていた。
「臣……」
もしかすれば、そう呼ぶことはもう二度とないのかもしれないとさえ思った、慣れた呼び名が口をつく。
その勢いに、紫が僅か、怯む様子を見せた。
「あの、申し訳ありません…」
こちらを窺ってくるおどおどとした態度に、胸が痛む。
「いや…」
何も、詫びるべきことなどしてはいないだろうに、そう口にした紫が、悲しい。
「どうした…?」
それをすれば更に紫が気にすると分かっていて、それでもどうしようもなくて私は目を背ける。
本当を言えば、こうして紫と同じ空気を吸っているだけでも、私は息が苦しかった。
たった今まで何もなかったところへ、紫の存在があらゆる感情を噴き上がるように引き出させるから。
まさしく混沌としたそれは、激しく湧き起こりながら同時にひどく澱んでおり、確かに私に属するものでありながら私の制御を受け付けるものではない。
「あの…」
向き合っていながら決して目を合わせようとしない私に、紫は戸惑いを隠せぬ様子だった。
視線を、感じる。
視界に入れることを拒んでも、私の意識は紫を感じようと却って強く研ぎ澄まされる。見えなくても、見えないから余計になのか、私は紫の密やかな息遣いをも全身の感覚で拾っていた。
そんな私に向かって、紫が何かを差し出してくる。
「…何だ?」
何の説明もしないのがさすがに不審で眉を寄せると、紫はなおも口篭もった。
「あ…あの…」
少し、待ってはみたが私に向かっては余程に言い辛いのか、紫の態度は要領を得ない。
あまりよい気分ではなかったが私はそれを受け取った。いずれにせよ、取らねば話は進むまい。
白い封筒にふっと息を吹きかけて開き、中身を取り出す。そして、ギクリ、と背筋に痺れるような戦慄が走るのを感じた。
それは、こんな場面で目にするにはかなり衝撃的なものだった。
紫の、写真―――忘れるはずもない、かつて私自身が撮った、あの写真だった。
しばらくは何を言うこともできずに、ただただ渡されたそれを見詰めていた。
それから、少しずつ思考が戻ってくる。
これを見せられたことで用件は大体分かったような気がしたが、出方を窺うように紫は沈黙を守るので、こちらから口を切った。
「これを、どこから…?」
まずは、その出所を確かめる。
秘密裏に広めた、これらの写真。どうして紫が持っているのか、純粋に疑問だった。
「あ…」
もっと劇的な反応を予期したものか、私の静かな対応に紫は刹那狼狽の様子を見せた。
「あの、先輩、に…」
おろおろとしながらようやくそれだけ、口にする。
それだけで、私は何もかもに合点がいった。
なるほど…。
「そう、か…」
そうか、彼が…。
私は目を伏せ、足許から立ち上る、敗北感にも似た感覚に耐えた。
さすがに…よく、分かっていると思った。
何をどうするのが最も効果的か。私を追い詰めるには、どうすればよいのか。
私を憎いと言った、彼の瞳を思い出す。
彼がこんな手段に出るのも、仕方がない、気がした。
「それで、お前は…、私に何を、言いに来た…?」
どんな誹りも責めも、甘んじて受けるほかないだろう。私はそれだけの、ことをした。
「あ…あの……」
別段開き直ったつもりはないのだが、私があまりに態度を悠然とし過ぎたのか、紫は落ち付かなげにしきりと身動ぎを繰り返す。
「臣…?」
努めて柔らかい声音を作り、私は呼んだ。
非は、私にあるのだ。紫が恐れを抱く必要などありはしない。
「先輩、が…これを、貴則様にお見せするように、と……」
こんなものを見れば、彼の立場とすれば私を咎めるのが当然だ。私などはそう思うのに紫は、そのようなこと、自身では思い付きもしなかったらしい。
それが発言から知れて私はつい苦笑していた。すぐに、消したが。
「そうか…」
ただ、相槌を打つにとどめて続くはずの言葉を待つ。私からは、もう、何も言うことはなかった。
「あ…の…」
詫びよと言うなら、いくらでも詫びよう。償えと言うならば、いかようにも……紫の、望みのままに。
そうした思いで断罪を待っていた私に、けれど紫が口にしたのは、意表を突くと言っても足りないほど予想外な言葉だった。
「申し訳ありませんでした……!」
勇気を振り絞るように大きく息を吸い込み、紫はそう、言ったのだ。
唖然、として私はまばたきするのも忘れそうになる。
「……何?」
完全に、まともな思考が飛んでいて、私の反応は限りなく鈍い。
「僕…写真が撮られているなんて、気付かなくて…。貴則様にも、ご迷惑をおかけして…」
それに気付かず、一度言い始めて紫はたがの外れたのか、次から次へと言葉を紡ぐ。さながら、坂道を転げ落ちる小石のように、とめどなく。
私はその勢いについてはゆけず、一つ一つ、紫の言うことを理解するのに数秒のタイムラグを要する。
しかし、腑に落ちる前から私は何かおかしいと感じていた。何か、ずれがあると。
「待て、臣」
咄嗟に、制止の言葉をかける。
だが、紫は聞かず止まらず、なおも夢中になって訴えを連ねる。
「そんな、写真…気を付けていれば、きっと…」
「臣、待て!!」
思わず私は声を高め、ビクリと紫は口どころか全身の、動きを止めた。顔色は、無惨なまでに蒼ざめて。
それを目にして、晒した醜態に私はほぞを噛む思いがした。
「済まない、大きな声を出して…」
「い、え…」
上目気味に私を見て、遠慮がちに小さく首を振る。
私は、平常心を呼び起こそうと努力しながら、改めて紫の言葉を反芻した。
写真を撮られていることに気付かなくて…私に迷惑をかけた、だと…?
何か、誤解している…。
未だ、紫がどういう思考経路をたどったのかは判然としなかったが、少なくとも何か誤解があることだけは確かだと思われた。
「臣…。訊きたいのだが、お前、この写真のこと、何も知らないのか…?」
なおも考えを押し進めながら、私は更に情報を得ようとする。
もう少し…もう少しで手が届きそうなのだが、その少しが私を阻む。それはのどにつかえる小骨のようにもどかしさを募らせた。
「え…?」
紫が、当惑したように目を見張るから、尚更に。
「…お前、この写真を見せられて、何と言われた…?」
会話は全く噛み合わず、手探りでもつれた糸の根をさかのぼる。
「えっ」
短く声をあげたきり、紫は羞恥にか頬を薄く染めた。
その時に、ふと浮かんだ、疑念。
まさか……。
それは思うだに最悪の、想像だった―――私を守りたいが為に、紫が自らの身を明け渡した、などとは。
「まさかお前は……」
体の芯が、冷たく痺れてゆくような、錯覚さえする。同時に、それはあまりに自分に都合の良すぎる解釈だと、嘲笑う声もどこかから。
「その写真を盾に、あの男に抱かれたのか…?」
それでも、思い付いてしまったその考えを、私は確かめずにはいられずに。
「臣。答えろ。そう、なのか?」
身を強張らせ、萎縮する紫を強い口調で問い質していた。
応えがあるまでの、実際には大して長くはなかったであろう時間を、この時の私はひどく重苦しく感じた。
「そう…です……」
そして、小さな声でのその首肯を耳に捕らえた瞬間の、地の底から噴き上げるような感情の奔流を、私は忘れない。
「あの男……!!」
一瞬とはいえ、目の前の紫の存在さえもかき消さんがばかりの、目も眩むような激情だった。
いや―――私はきっと実際に、紫のことを忘れていた。
ただ、一人の男へのたぎる怒りだけに体中を埋め尽くされて。
「も…しわけ、ありませ……」
どす黒い感情で凝り固まった私の心を解いたのは、涙に掠れた、少年の声だった。
彼の声でさえなければ間違いなく聞き逃していたであろう、音としては小さな小さな、声。
けれどもそれを私の耳は、怒気に半ば閉ざされた、僅かな空隙から確実にすくい上げた。
「違う、臣!」
間髪を容れず、私は鋭く叫んでいた。
そのまま、込み上げてくる衝動のままに、彼の体を掻き抱いた。力の限りに。
抱き締めずには、いられない……!
「臣、お前は馬鹿だ…!」
溢れるほどの想いのたけを、敢えて制することをしなかったが故に、私の言葉はひどく聞き取りにくく掠れた。
「もうし、わけ…」
腕の中、微かに震えながら少年は応じる。
「違う……!!」
その途中を遮り強く、否定する。
違う、そうではない。
紫が謝罪しようとする、その内容を指し、私は言ったわけではない。
私の胸を苛み、耐え難く痛ませるのは、私の仕出かした愚行のカタに、躰を開いたその行為だ。
「お前は、馬鹿だ……!!」
湧き起こる想いを抑え得ず、私はもう一度、繰り返した。
…私などの為に。
この躰を…少し乱暴にすれば壊れてしまいそうな、この華奢な造りの躰を、私などの為に捧げたというのか―――!?
何て、馬鹿なことを……!
私は、思う。
だが。
「違うな…」
もっと、愚かなのは……。
今更ながらに、取り返しのつかぬ後悔を噛み締め、思う。
本当に、愚かなのは。
「馬鹿は、私の方か……」
紫にこんな真似をさせる原因を作った自分自身を差し置いて、紫を馬鹿呼ばわりする権利など、私にあろうはずがない。
罵られるべきは、私自身こそ、なのだ。
ようやく思いはそこまで至り、私は放し難い腕を努力して、ぎごちない動きで、解いた。
側にいれば再び抱いてしまいたくなる気がして、少し距離を取る。
程よくスプリングのきいたベッドに、ドサッと体重を投げ出すようにして腰を下ろし、そこから私は見上げた。
「臣…。話したいことが、ある。聞いて、くれるか…?」
私は紫に、全てを告白する決心を固めていた。言わなければ、きっと一生、純粋な紫は気付かないままでいるだろう、私の行いを。
神に向かい懺悔をする、キリスト教徒のような気持ちで、低い位置から紫を注視する。
常にない私の言動に、紫は瞬時まごついたものの、すぐにコックリと頷いた。
「ありがとう」
どこか幼いその仕種に微笑を含んだものの、束の間のことだ。
ゆっくりと目を閉じ、私は切り出す言葉を慎重に探った。
「臣…」
紫―――私が、この世の何者よりも、……もしかすると自分自身よりも、大切に想う者。
「私は…、お前が思っているような男では、ない」
無心に私を信じ、慕ってくれる。
だが……。
違う、のだ。
紫の知る私は、私であって私ではない。
私が彼に見せる取り繕った幻想を、極限まで美化した、偶像だ。
本当の、私は…。
「その写真…。お前は、誰かに撮られたのだと思ったようだが…」
紫が私に身を任す様を、つぶさに写し取った、それは…。
「そうじゃない。撮ったのは、私だよ…」
「え…?」
分かっていたことだが、愕然と言葉を失う紫を見てはおれずに顔を俯ける。
「ど…して…」
紫には分からない、か…。そうだろうな…。
私がどれほど恐れていたか。
私がどれほど欲していたか。
私がどれほど愛していたか。
「お前を、私に繋ぎ止めるために…だ」
私がどれほど、愛しているか―――
言わないのではなく、何も言えない、といった風情で棒立ちになる紫。
「お前を最初に抱いた時…」
思い返す。
「お前は、何も言わずに私に抱かれたな」
苦い、記憶。
「だから私は、お前は私のことが好きなのだと、その時は信じて疑わなかった」
そんなことで、紫の全てを手に入れた気になっていた。思い込んでいた。
「だが…。その内に、不安になった」
従順だった、紫。
「お前が余りにも、何も言わないから…。何度抱いても…。私が、何をしても…」
…まるで機械仕掛けの人形のように、彼は私に「はい」としか言わない。
心に通い合うものは何もなく、私が受け取るものは一方的なただの奉仕に過ぎなかった。
「それでも、最初の内は、まだ、よかった。お前の気持ちは分からなくても、お前が私のものだとは、確かに思えたから…」
それがたとえ、仕える者としての忠誠心でしか、なくても…。
「だが、年を重ねて、お前はどんどん綺麗になって…私は、いつかお前が私から離れていってしまうのではないかと恐れるようになった」
刷り込みのようなものだ。
紫は私しか知らなかった。
それは、本人が私ばかりを追いかけていたという面もあるにはある。だが、私の方もそれを利用していた。私が、紫の世界を閉じていたのだ。
私のもとを去ることなど考えられぬよう、手の平に遊ばせた。
それでも…。
「そんなこと…っ!」
心外だ、とばかりにそれまで黙っていた口を開きかけた紫。
「聞け、臣」
私はそれに取り合うことなく続けた。
「不安に取り付かれた私は、お前を失わないために、様々なことを、した」
それでも、子供はやがて、成長する。雛はいずれ親元を飛び立つ。
紫とて例外であるはずはなく。
私が本当の意味で紫を手に入れられてなどいない以上、彼がいずれ私の手を振り切るだろうことは火を見るより明らかな事実だった。
そのことが、恐くて。
恐れても仕方がないのに、どんなに恐れてもいつかその時が来ることは避けようのないことなのに、私は足掻いた。「いつか」を少しでも遠いものにするために、叶うなら永遠に先のこととするために。
「その写真も、その中の一つだ」
「貴則様…」
軽く息を吸い、そして一息に吐き出す。
「…お前は知らなかったろうが、その写真…知っている者は、知っているんだよ。まあ流石に、現物を持っている者はそうはいないだろうが…見たことがあるというだけなら、相当数いるはずだ」
紫は再び、驚愕を露にした。
「どうして…」
掠れた声で、それだけ、言う。
「私が、流したからだ」
痛みを抱き締めながら、正直に真実をさらけ出す。今更、隠すべきもの…隠してよいものなど、何もない。
「貴則、様?」
紫は、その表情で不得要領を主張した。
そこに紫の、私への根強い信頼を見て自嘲の思いが込み上げる。
私は…その信頼に、到底相応しくない。
ずっと、彼を裏切っていた。
紫を欲するエゴだけで彼を騙し続けていた…。
吐息をついて、気を取り直す。
「牽制の為だ。この写真によって、お前は私のものだと知らしめ、誰も、手が出せないように…」
紫の気持ちは、自分にはないと知りながら。私はそれをせずにはいられなかった。
「お前を強引に生徒会に入れて、私自身の目の届くところにおいたこともあって、目論見は成功していた。誰も…私からお前を奪おうとする者は、いなかった」
いないように、見えていた。
「ただ一人…」
目を瞑った脳裡に過るのは、掴みどころない微笑。
「あの男を、除いては」
「貴則様……」
呼ぶ声に目を開き、他に選択の余地のない表情を、向けた。作った、笑みを。
「お前の体にキスマークを見つけて、私は愕然としたよ。お前にそんな素振りは少しもなかったからね…。そして…隠し事はない、というお前の言葉を聞いて、私は……」
未だにあの衝撃は、私を縛る。
あの時、私は…。
「嫉妬と絶望に目が眩んだ……」
それは、これまで躍起になって塗り固めてきた砂の楼閣が努力空しく崩壊してゆく実感。
「目の前には明らかに証拠があるのに、お前からは何の言葉も聞けなかったのだから…」
止めようもなくサラサラと毀れていった。
「嫉妬と、絶望と、恐怖と、怒りと、哀しみと……。あの時の気持ちは、今でもはっきりと思い出せる…。辛かった…………」
思い出せる……忘れ、られない。
様々な感情が入り混じったカオスの中、一際強く胸を抉った、喪失感……。
「本当は…その写真を使って、お前を無理矢理私に縛り付けようかとも思っていた」
そう、彼と…。
「…あの男と、同じにね」
無意識に手を、握り締める。
「その写真を、ばら撒かれたくなければ私のものでいろ、と…そう言えば、お前は拒めなかっただろうから…」
そこまで、考えた。そんな卑しい考えまで抱かずにはいられなかった、弱い人間なのだ、私は。
「だが…」
ふ、と息をつく。
「本当に、その選択肢を目の前に突き付けられてみて、気付いた。私が欲しいのは、お前の体じゃない、心なのだと…。そうである以上、無理矢理に引き留めても、なんの意味もないのだ、と……」
むしろ…、体だけを抱き続ければ、心はますます離れていくばかりだったろう……。
「それでも…」
それと悟ってはいても、当時の心情はそう単純だったわけではない。
「あの男と一緒にいるお前を見る度、嫉妬に狂いそうになった。体だけでもいい、手放したくない…そんな風にさえ、思った」
渇望と、絶望。相反する感情が、強く強く心を占めた。
「そんな自分を理性で抑え込むのは、相当苦しかったよ……」
思いのままに振る舞ってみたい…そんな衝動に駆られたことも、一度や二度のことではない。
「しかも、お前は…私が必死の思いで手放したというのに、少しも幸せそうには見えない…。それどころか、見る度にやつれていって……」
あの頃の、苛立ち焦燥を思って溜め息をつく。
「あの男は、何をしているのかと思ったよ」
私が紫を解放したのは、ひとえに彼の幸せを望んだからだ。だからこそ、自分自身の気持ちをも、殺して……。
それなのに……!!
不意に。
「そんなの……!」
重い空気の強ばりを、切り裂き振り切るように鋭く紫が叫んだ。
その剣幕に、意表を突かれる。目を見開く。
そのまま、蹌踉とした足取りで紫は私の膝元に崩れ落ちた。
「そんなの、当たり前です……」
膝にかかった手の、細い指先が震える。震えながら、ギュッと握り込む。
「臣……?」
向けた視線の先、ふぅっと浮かび上がった涙が、止める間もなく零れ落ちた。
綺麗な綺麗な雫に、束の間見惚れる。
その濡れた瞳のままで、紫は言った。
「…僕は、貴則様が好きなんですから……」
囁くように、そう言った。
「僕が好きなのは、貴方です、貴則様……。貴方だけです……!!」
―――何を、言われているのかと思った。
今、紫は……何と、言った……?
私は、自分の耳を信じられなかった。
幻聴か…さもなければ、夢か。
そうとしか、考えられなかった。
けれども。
「貴則、様…?」
紫は。
一心に見上げてくる眼差しを、彼もまた頼りなげに揺らがせる様は、夢と呼ぶには克明に過ぎて。
「臣……?」
未だ触れれば消えてしまいそうな不安に苛まれながらも、私は確かめずにはいられなかった。彼に触れ、それが現実だと確かめずには、いられなかった。
伸ばした手が、紫に届く。
瞬間、指先から伝わる震え。それとも、震えていたのは、私の方だったのか―――
「貴則様……」
作りの整った顔を歪め、澄んだ黒い眼からこらえ切れぬ涙を溢れさせる。
その小さな手の感触を、認識するかしないかの内に、無我夢中で華奢な体を抱き込んでいた。
「臣…臣……!」
腕の中の生き物が、あまりにも恋しい。あまりにも、愛しい…。
「好きだ、臣…愛してる…臣……」
この想いを告げられる日が来るなどと、思ってもみなかった。
ましてや、想いを返してもらえようなどとは……。
背に回った手の平を感じた時には、本気で体の底から身震いがした。
「臣……」
この気持ちに、何と名付ければよいのか、分からない。
ずっと見ていた。彼だけを、想ってきた。
「…紫…………」
ただただ、大切で、大切で、それ以上に何と言えばいいのか分からない。
「貴方が、好きです。ずっと、好きです…!」
言葉にこもる深い想いに、胸が詰まる。
自分のものになるとは、信じられなかった。
「愛してる…紫…お前を、愛してる……」
こんな風に抱き合えるとは、思わなかった……!
まだ、半ばは信じられぬ気分で、夢なら覚めぬ内にと、逸る気持ちのままに紫に触れようと、した。
が、性急さに驚き怯んだように身を強張らせる。
「…嫌…か……?」
その反応に私の方こそ余程怯えて、伺いを立てる。
僅かな間を置き、紫は強く首を振った。
「抱いて下さい……」
消え入りそうな小さな声の、語尾を攫うように唇へ、口付けた。
恋人ではなかったから、キスはできなかった。それは私にとって、触れることの叶わない禁域だった。
けれど今なら、許される。
否。
本当は最初から、そんなものは存在していなかったのに―――!!
「紫……紫……」
口唇を割って内側を侵す行為に、たどたどしく、必死に応えようとするのがいじらしい。私としても、仕掛けた立場でありながら、いつしか夢中で貪っていた。
全身が、紫を求めて止まない。
「…っあ、ア…」
瑕一つない吸い付くような手触りの肌に、愛撫を施す。
私自身ものめり込むように紫を愛したが、紫もまた鮮やかな反応を返す。
艶やかな喘ぎ声をあげ、しなやかに身をくねらせる。
「んっ、ああ…っ」
逃れることを許さず追いかけもう一度唇を合わせると、声もあげられずにびくんっと下腹を波打たせた。
欲情を放って少しだけ興奮の去った顔を覗き込むと、泣きそうな表情でぎこちなく俯く。
幾度となく繰り返してきた営みなのに、決してなれることのない紫に、ひどく優しい気持ちに、なる。
「いいよ…。何度でもイクといい…。私の腕の中でなら、全てが許せる……」
一人だけ先に達してしまったことを恥じらう、そんなところまでも…何もかもが、愛しくて。
再び確かめるように、唇を重ねた。
二人、もつれ合うようにしてベッドに倒れ込む。
「紫…」
何度も何度も、想いをそそぎ込むようにキスをした。
「貴則、様…」
潤んだ瞳が見上げてくると、私も目頭がツンと熱くなる。
「紫、愛してる…」
そっと抱き締める。久し振りに抱く躰は、記憶に残るよりも一層華奢で頼りのない感じがする。
ほんの少しも乱暴に扱うことなど許されぬような。大切に大切にしたいと願う。
口付けの場所を、唇からやがて顎、項へとずらしてゆく。
私の動きを察して、自ら服を脱ごうとする紫を、止めた。
戸惑い問いかける眼差しに、薄く微笑む。
「させてくれ…」
一瞬の空白の後に、紫はカァッと赤面した。
予想に違わぬ反応にくすくすと声をあげて笑う。
「た、貴則様っ」
からかわれたと知って、紫が軽く睨んでくる。けれども赤く染まったままの顔では迫力などあるはずもなく、全く痛痒を感じないばかりか、かえってそそられるものさえある。
視線を、逸らすことなく合わせたまま頬を寄せ、唇を啄む。
最初見開いた目はいつしか恥じらうように伏せられて、預けられる体の重みが快い。
繰り返す口付けの合間に、そっと衣服を取り去った。
「ぁん…」
白い素肌を辿ると、甘い声が零れる。
丁寧に、感触を確かめるようになぞりながら、私は思わず洩らしていた。
「痩せた、な…」
元々細身の少年だったが、今は以前に増して肉が削げ落ち、儚げな印象を際立たせている。
「あ…」
呟きを聞きとがめ、あばらの浮きかけた身を恥じ、隠すように、紫は背を丸めようとした。
そうはさせじと縫い止めながら、嘆息を吐き出す。
「私の、せいだな…」
紫はハッとして身を捩り、私を見上げてきた。
「そんなこと…っ」
否定の言葉を舌に乗せようとした彼に、小さく笑みを刻んで首を振り、告げた。
「そういうことに、しておいてくれ…」
「貴則様…」
何も言えなくなって紫が眼差しを揺らがせる。
湿っぽくなってしまった空気をふふと笑って流し、包み込むように紫の頬に手を当てた。
「愛してる、紫。大事にするから…、お前を、私にくれるか?」
微かに目を見張って驚きを示す。
「貴則様…」
「お前が欲しい、紫……」
紫は黒曜石の瞳に涙の膜を張って、手を、重ねてきた。
「貴方のものです、貴則様…。最初から、僕は貴方だけのものです……」
涙声の紫を、ただ黙って掻き抱いた。
―――ずいぶん遠回りをした。
ずっとずっと、気持ちは寄り添っていたのに。
近付き過ぎて全貌を見失うかのごとく、私は紫ばかりを見詰めるあまりに何も見えなくなっていた。
気付けば、答えはこんなにも側に在ったのに。
溢れ出す想いに急かされるように、私達は愛し合った。
「あ…やぁっ」
白い肌は、ひどく痕が付きやすい。吸い付くと、いともたやすく刻印を許した。
「んんっ…」
艶やかに濡れた声を抑えようというのか、唇を噛み、あまつさえ握った拳で口元を塞ぐ。
「紫…? こらえなくていい。お前の声が聞きたい…」
「ンッ」
そっと剥がすと、途端零れ出す嬌声。
身体中余すところなく朱印を散らし、愛撫の手に乱れる紫の様は、この世の何物よりも美しいと感じた。
「貴則様…貴則様……」
うわ言のように私の名を呼び続ける紫が、可愛い。
固く瞑った眦から伝う、快楽の涙。
「紫…」
小さ目ながら、しっかりと勃ち上がり愉悦を表している中心を、口に含んだ。
「!!」
紫は過敏なほどに鋭く身を震わせる。
「いやぁっ! だ、駄目です、貴則様…! ダメ……ッ」
先端を軽く啜り上げると切羽詰まった悲鳴をあげた。
させたことはあるが、私がしたことは一度もなかった、行為。その、鮮烈に過ぎる刺激に、紫は半ば、恐怖に覚えたようだった。
「や、止め…っ、貴則様、僕…っ」
皺になるほど強くシーツを掴み締め、せり上がる射精感を必死にやり過ごそうと試みる。
「やあっ、あ、あ……っ!」
くびれに舌を這わせ、裏筋を舐めると、くぅっとのどを鳴らし、引き付けを起こして跳ねる。
「貴則、さま…っ!」
紫が「放せ」と言いたがっているのは分かったが、無視してとどめとばかりにキツく吸った。
「ン…ッ」
小さな声に僅かに遅れ、弾ける。
舌先に広がる苦みを、初めからそのつもりだった私はためらいなくのどに送り込んだ。
ゴクリ、と嚥下する音はやけに響き、紫は真っ赤になって硬直した。
「貴則様……」
泣きそうな顔をして、息苦しいように喘ぐ。
苦笑、した。
「何故、そんな顔をすることがある?」
「貴則様に、こんな、こと……」
小さく小さく身を竦ませる紫を、ふわりと抱き寄せた。
「私がしたかったんだ。それとも、お前は嫌だったのか?」
腕の中で、更に震える。宥めるように、幾度も手触りのよい髪を撫でた。
「好きだ、紫。愛してる」
少しの、考えるような間の後、ゆっくりと私の胸を押して身を離す。
「紫?」
私の疑問に応えるように体をずり下げ、下身に唇を寄せる。
同じことをしようとしているのだという意図を察して、それを止めた。
「貴則様…?」
行為を妨げられ、紫が戸惑ったような声をあげる。
私は、首を振った。
「しなくていい」
これまで、散々させておいて今更だが、私は、紫にそれをさせたくなかった。してもらわなくても、私はこうして紫を抱いているだけで十分な満足感を得ていたのだ。
だから、気持ちが行き違っていた頃を思わせるそれを、して欲しいとは思わなかった。
「今は、お前を抱いていたい…」
「あ…ぁっん、んぅ…ふ…」
繋がったところを揺さぶると、次々と洩れる甘やかな喘ぎ。昂ぶる躰。
「紫、愛してる、紫…」
何度言っても言い足りなくて、言葉にする端から新たな想いが湧き出して、止まらない。
軽く突き上げれば柔らかく受け止め、強く打ち付けると締め上げるかのように絡んでくる。
紫の中はとろけそうに熱く、狭く、そのくせ私を拒まない。まるでそれ自身が意思を持つかのように、私を包み込んで放さない。
「……んっ」
内側を擦り上げる刺激に鼻声をあげる。
「あぁっ」
グイと突く感触に鳴く。
身を捩り、掴まる物を探してシーツの海をさまよう手の平を捕らえ、頬擦りをした。
「紫…」
そろそろとピッチを上げていくと嬌声が一際高くなる。
「あ、あ…っ、んくっ、ぅん…っ、あぁんっ!」
最大限に割り広げられた下肢をビクビクと痙攣させて、とめどない悦びの声を放つ姿はひどく淫らがましい。
それなのに、冒し難い神聖さをも同時に感じるのは、何故なのだろうか。
「愛してる、愛してるよ、紫…」
これまで言えなかった空隙を埋めるかのように、私は言葉を唱え続けた。
快感に溺れる紫は半ば意識を飛ばしており、答えは求めようもなかったが、それでもよかった。
愛していると心置きなく言える、そのことに大袈裟でなく感動していた。
「ンン……ッ!」
耳に吹き込んだ私の囁きに答えるように紫は上り詰め、そして、終焉を迎えた。
紫が学校中を駆けり回っている。
いや、極め付きに行儀のよい彼のこと、実際に走っているわけではなくて、つまりこれは比喩なのだが。
走ってはいないが、逸る気も露わにあちらこちらと覗き回る。
彼のその行動の理由も、私には分かっていた。
―――「彼」を、探しているのだ。
実は私は、その人の居場所を知っていた。偶然だが。
けれど…どうしても、それを教えてやろうという心持ちにはなれなかった。
その内自分で見つけ出すだろうという予測以上に、できることならこのまま見付けられないまま諦めてしまってくれたらいいと願っていた。
自分の不甲斐ない狭量さに、溜め息が出る。
私はよく、年の割に大人びていると人に評されるが、自分ではそんなことはないと気付いていた。
特に、こと紫に関しては…まるで母親を独占したがる幼児そのものだ。いつでも彼の服の裾を握っていないと気が済まないらしい。
自分の器の小ささに自分で呆れるくらいだ。ずっと後をつけ回していたと知れば、紫は一体どんな顔をすることか。
が、それを押しても、ついに探し当て、彼の元へ行く紫から目を放すことは私にはできなかった。
私は、自分が取るに足りない度量の狭い男だと知っている。客観的に見て…彼より自分を推すほどの自信は、持っていない。
だから、不安だったのだ。
想いを告げ合い、抱き合って夜を明かした。
それでも、私は不安だった。
気にかかるという紫の気持ちは分からないでもない。けれど、だからと言って会って何になるというのだろう…。
…こんな風に、行動に無闇と理由付けをしてしまう、それこそがまさに余裕のなさの表れなのだが。
胸中の葛藤をやや持て余しながら、私は紫を待ち侘びていた。
キィ、と音をさせて屋上につながる扉がゆっくりと開く。
薄暗さに目が慣れていた私は、少し眩しく感じながら、光を背にした小柄な人物のシルエットにじっと目を凝らしていた。
……恐れていた。紫はどんな顔を、するだろうと。
だが、違った。
少し下った踊り場に私の姿を認め、私が思い描いたどれとも異なった表情を、彼は浮かべた。
はにかんだ、微笑みを。
見ているこちらの胸の内にスルリと入り込んでくるような。
「臣……」
知らず、私も笑みを浮かべていた。
紫の微笑み一つでそれまでの不安などどこかへ消し飛び、ただ温かな想いだけが心を満たす。
「貴則様…」
トントンと軽い足音で下りてきて、紫は間近で私を見上げた。
「待っていて下さったんですか?」
「ああ、いや…」
澄み切って曇りのない真っ直ぐな眼差しは、そのまま私への信頼を映し、私は返す言葉なく曖昧に語尾を濁す。
自然と、両腕で紫を抱き締めていた。
「貴則様…」
抗うことなく身は委ねられ、そのことに突き上げるようないとしみを覚える。
長い間、想い続けていた。ずっと…。
届かない恋心に苦しんでいた頃を思うと、こうして紫を腕に抱けることは夢のようだ。
「紫…」
「…貴方が好きです」
頬を押し付けるようにしながら、紫は言った。
「貴方が、好きです、貴則様…」
目眩がするようだった。
「…っ」
何も、言葉にはならず、ただ腕の力を強くする。
「…愛してる」
胸に溢れ返る想いは、けれども言葉にすればたったそれだけ。
「愛してる。お前を、愛してる…!」
想いの叶うことなど諦めていた。ずっと焦がれて焦がれて…、それでも手に入るなどとは到底望めなかった。
だが、今、紫は確かにこの腕にいる。
夢でも幻でもなく、間違いなく…。
事実をしっかと噛み締めながら、そっと紫の細い頤を持ち上げる。
刹那眩しげに目を細め、それから睫毛の長い目を伏せる。
そこへ、唇を、重ねた。
犯したいくつもの、過ちと罪をわすれたわけではない。忘れられるはずもない。
それでも、私を見て微笑む紫を、信じていいのだと思う。
彼が私を見ていてくれる、限り―――
私は紫を、愛している。
END