コン、コン。 「……愛してるよ」
瞬間、時が止まった。 …来るわけない。
END
くっきりとしたノック2回。
「陛下。シデュール・グエインお召しに従い、参上致しました。入室をご許可願います」
室内では、ガタンッと椅子の鳴る音がした。
「…入れ」
「失礼致します」
足を踏み入れてみると皇帝は、勢いに任せて立ったらしい、そのままの格好で立っていた。
動じることなく、シデュールは再び挨拶を繰り返す。
「シデュール・グエイン、只今参上致しました」
ビシッと完璧に隙の無い敬礼。
そのまま待つこと、1分2分。
「…陛下、御用の向きを承りたく存じますが」
「ああ……」
ふっと気付いたように椅子に掛け直す。
更に待つこと、5分10分。
「…陛下、申し訳ございませんが、仕事がございますので、失礼してよろしいでしょうか。御用がおありでしたら、また改めてお呼び下さい」
「だめだ。行くな。行くなよ。今、話すことを考えているんだ」
「…陛下」
私的な、くだけた口調を戒める。
「考えがまとまってからお呼び下さい」
「お前がっ!」
手の平を机に叩きつける。
「なんでしょうか」
シデュールは全く応えた風も無い。
「お前が来るまでに、考えようと思ってたんだ…。こんな早く、来るとは思わなかったから……」
「何故です? 陛下のお召しとあらば、私はどこへなりと、可能な限り早く参上致します所存ですが」
「ここの所、忙しくしてるように、見えた、から…」
もごもごと、歯切れ悪く口にする。
「ええ、実際、忙しいですからね。ですが、それとこれとは話が別かと考えますが。…御用はそれだけでしょうか?」
「シデュール! 普通に話せ!!」
どこまで行っても臣下としての態度を崩さない幼馴染みに、ついに切れる。
怒鳴られたシデュールの方は、それでも大して感銘を受けた様子も無く、深々と溜め息をついた。
「なんだよ、一体。どうしたんだ、フィエ?」
主君の前だというのに、不遜にも腕組みなどして見せる。
「…最初っから、そう言ってくれれば良かったんだ」
少しだけ不満そうに、けれどもどこか、ひどく嬉しげな様子を見せる。
「無茶言うな。お前は皇帝、俺は一介の武官に過ぎないんだぞ」
「人の目がある場所でならともかく、二人きりの時くらいいいだろ!」
ほとんど、それは駄々だ。
シデュールは天井を仰いで、嘆息した。
「お前、なぁ…。そりゃ、お前はいいよ。誰の前でどんな態度しようと誰にも何も言われないだろうさ。けどな、俺は、身分も何も無いただの武官なんだぞ? そこんとこ、分かってるか?」
「それが、なんだよ」
「誰かに見付かったとき、とばっちり食うのは俺だってこと! お前のわがままを聞いたせいで、だぞ?」
「そんときゃちゃんと庇ってやるよ!」
それを聞いたシデュールが、実に嫌そうな顔をする。
「庇って、ねぇ…。ぞっとしないな…。俺的には、自分の身は自分で守る方を選びたいんだけど?」
「…お前、わがままだぞ!」
「…………」
どっちがだ、とは決して口にはしなかったが、わざとらしい間が、雄弁にそれを語る。
「…話が逸れてるな。そもそも、何の用なんだ?」
「…だからっ。…最近、お前、俺のこと、避けてないか…って……」
「はぁ?」
思い切り、キョトン、とした。
「なんだそりゃ」
まじまじ、と幼馴染みを見返す。
気まずくなったように、フィユーリンドは目を伏せた。
「…一体、何だってそんなことを考え付いたんだ?」
シデュールはごく、自然に、年下の幼馴染みに譲ってやるクセが身についている。
彼の方が折れてやらねばこの関係は続くものではない、と半ば本能で悟っていた。それは、身分がどう、ということではなく。
「…お前と会う時間が減った」
「それは仕方ないだろ? お前には公務あるし。俺だって仕事あるし」
「…だけどっ。一日中、顔も見てない日とか、あった!」
ガキじゃないんだから…、とシデュールは呆れ半分、疲れ半分だ。
「別におかしなことじゃないだろ…」
フィユーリンドは、これで皇帝としてはなかなかに優秀らしい。
下っ端に過ぎないシデュールの耳にも入ってくるほど重臣達はべた褒めだし、学者達さえ舌を巻くという。
だが、シデュールは実際に自分の目で見知っているわけではなく、どうしても信じられない。
「お前さあ…フィエ…。いつまでもガキじゃないんだから…。ちょっと冷静になって考えてみ? 俺とお前とが、毎日会っていないといけない理由が何かあるか?」
「それは…無い、けど」
理路整然と、反論の隙も無い。
こいつ、嫌いだ…!
悔しさに、泣きたくなる。
「だろ?」
「でも、俺は会いたいんだ! お前に!」
…ガキに理屈は通じない。もしくは、必要ない。
であるが故に、天下無敵である。
「フィエ……」
かなり、シデュールの中で疲れの割合が増している。
「そりゃ、会わなきゃいけない理由なんか無いかもしれないけど、会っちゃいけない理由だって無いだろ!」
増してはいるのだが。
はぁ、とシデュールが息を吐き出した。
グイ、とフィユーリンドの頭を抱き寄せる。
「拗ねてるのか、フィエ?」
乱暴に髪の毛をかきまぜるその唇には、笑み。
なんだかんだ言っても、シデュールは幼馴染みに甘い。
単なるわがままとはいえ、自分に会えなくて拗ねているなど、可愛いではないか。
前言撤回…。こういうところ、やっぱり好きだ……。
心地好い感覚に身を委ねながらフィユーリンドは思う。
「…別にっ。拗ねてなんかっ」
けれどもそこは、素直に認めることなどできない性分。
ムキになって否定すると、あっさりとシデュールは腕を解いた。
「…そうですか。では、陛下、私はこれで」
これまでの態度が嘘のように、公の表情を作り上げる。
「…っシデュール!」
噛みつくように名を喚けば、また、ガラリと顔を変える。
ニヤリ、と。
「拗ねてるんでなければ、俺がいる必要、ないだろ?」
素直に負けを認めろ、と。
「……お前、キライだ……」
意地悪だ…!
素直でない自分のことなど棚に上げ、フィユーリンドは思う。
…けれど。
「…そうですか」
シデュールは微かに目を見開き、さり気なく視線を外した。
「分かりました」
そのまま、目を合わせることなく背を向ける。
嘘……。
傷つけた!?
「シ…シデュール!」
咄嗟に呼び止めると、ビクリと肩を震わせた。
「…なんです?」
振り返って、くれない。
「キライだなんて、嘘だ。ホントは、キライじゃない」
少し、沈黙して。
「…ありがとうございます」
なんて、ひどく他人行儀に礼など言ってくる。
その後ろ姿がひどく淋しげで、フィユーリンドはうろたえる。
「…では」
短く言って、去ろうとする肩が震えている…? 泣いて、いるのか……?
「シデュール!本当に、嫌いなんかじゃない! 嫌いどころか…好きだ!」
必死になって言い募る。
シデュールの足が止まった。
「シデュール…ホントだ。俺、お前のこと、好きだよ…って……」
何か、おかしい。
そう思った途端に、弾けるようにシデュールが爆笑した。
「〜〜〜〜〜〜!!? シデュール!?」
「あっは…おっかし……。お前、分かりやす過ぎ…あはははははははははははは」
腹を抱えて笑い転げている。
「おっま…、騙したな!?」
「騙した? 俺が? なんで? 俺、何も言ってないぜ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
ギリギリと唇を噛み締める。
「お前なんか……!」
「ほいほい、好きなんだよな、俺のコト」
言われた方ばかりか、言った方まで凍り付いていた。
そして、沈黙してしまったことで、冗談にもならなくなっている。
それでも、先に立ち直ったのは言った方だった。立ち直ったと言うよりは、居直ったのは、だが。
「何…言って……」
声をカスれさせたシデュールに、無言で何かを放った。
反射的に手を出して受け止める。
キィ?
ハッと、見遣る。
「フィ…エ……?」
畏れるように、シデュールはその名を呼んだ。
「待ってる」
いつ、とも、どこで、とも言わず、ただ、そう言った。
「……」
救いを求めるように、シデュールが見詰めてくる。
「…行け」
彼らの間で、そんな風に命が発されるのは、初めてのことだった。
…来るはずが、ない。
馬鹿なことを言った。
馬鹿なことだと知っていたのに、言ってしまった。
……来なければいい……。
来るな、シデュール。
来なければ、冗談にできる。…きっと、そうする……。
その時、カチリ、と鍵の回る音がした。
ハッと顔を上げる。
「シデュール……」
「来たぞ、フィユーリンド」
久しく呼ばなかった、正式な名。
「来ないと…思った……」
呆然と答える。
「なんでお前はそう、決め付けるんだ…」
苦々しげに、シデュールは吐き捨てた。
慣れない、冷たい顔を向けられて、ツキン、と心が痛む。
ここは、自分しか知らない場所。
自分と、シデュールしか。
幼い頃の、思い出の場所だ。
ここに来れば、あの頃に戻れる、と思った。
それとも、変われる、と思ったのだろうか…?
分からない。
ただ、言えることは。
既に、変わってしまった、ということだ。
自分と、シデュールとは。
もう、引き返すことはできまい…。
切ない思いで見詰めるフィユーリンドに、シデュールが再び口を開いた。
「大体お前は、勝手なんだ…。いっつもいっつもやりたい放題、俺を振り回しやがって…。それで俺がどれだけ大変な思いしてるかなんて、全然分かってないだろう…」
そっちこそ言いたい放題なシデュールに密かに傷つきつつ、ぶつぶつとぼやき続けるその様に、ふと感じた、違和感。
眉を、顰める。
「シデュール、酔ってるか?」
頬は上気し、いつにないほど好戦的だ。
ふいと顔を上げ、カッチリと視線を合わす。
思わず紅くなった。
「ああ…。酒飲んで、考えに考えたが、それでも分からんから聞きに来た」
そんなこととはついぞ気付かぬ態で、潤んだ眼差しをひたと当てる。
到底、素面でなぞいられなかった、ということか…。
傷つくフィユーリンドを、しかしシデュールは哀しみに浸らせてくれない。
頭の中で割れ鐘が鳴っているかのような表情で、こめかみを押さえた。
「おい…頭痛がするほど飲んだのか!?」
弱いくせに……。
「お前の…せいだ……。昼間の…どう、いう……」
「ちょっ、待てっっ」
口元を押さえた、自分より年長かつ長身の幼馴染みを引きずるようにしてバルコニーへと連れ出す。
吐くだけ吐くと、そのままシデュールは眠り込んだ。
無防備に。心地好さげに。
「ひでーの……」
うっとりと微笑んでいるように見える、その寝顔に苦笑する。
「…お前、ずるいよ、シデュール…」
泣きそうに、なる。
「振り回されてるのなんか、俺の方だ…。お前こそ、知らないだろう…。俺が、どれだけお前のこと、好きかなんて。お前の笑ってる顔が見たくて…お前に、会いたくて。…しょうがないだろう、好きなんだから。欲しいのなんかお前だけなのに、お前だけが、俺の思い通りにならない…。わがままくらい、許せよ。そうでもないと、お前、側に来てくれないじゃないか……」
そっと、眠る頬に手を当てる。
愛しげに。
「愛してるよ……」
答えは無く、僅かに開いた唇からは、代わりに、スゥ、と気持ちよさそうな寝息が聞かれた。