「そろそろ、この部屋ともお別れね…」
いつになく、母がしんみりと語った言葉にシデュールは黙って頷いた。
皇宮の主たる皇族のために、と宮内でも特に意匠を凝らし、贅を尽くして整えられた一画、後宮。
本来、地方の豪族に過ぎないシデュール母子にとっては一生涯縁のなかったはずの場所だった。
それが、偶然が重なって母は世継ぎの皇子の乳母として召され、自分までもがこの場所にいることを、時にシデュールは不思議に感じる。思うのだ。ここは、自分の居場所ではない―――と。
皇宮での暮らしに不満があるというわけではない。元々の身分からすれば不相応なほどの好待遇を受けている。不服を言うなどバチが当たるというものだろう。
それらは全て、皇太子であるフィユーリンドが乳母母子によく懐き、慕っているためだ。
不満など…ない。
だが、むしろ厚遇されるからこそ、だろうか。大切にされればされるほど、シデュールの中で違和感は拭い去れないほどに膨れ上がった。
物心つくかつかぬかの内から後宮という特殊な環境で育ちながら、母の厳しい躾ゆえか、シデュールの感覚は驚くほど世間ずれしないものだった。
皇太子たるフィユーリンドとの身分の差はきちんとわきまえながらも、「育てる」という自分の役の主眼を見失わず、甘やかすばかりでなく時には叱ることも厭わず皇子に接する母に倣い、シデュールもまたフィエに対し立てるばかりではない態度を取った。皇子という身分を考慮すれば世間的には許されるだろうわがままを、自分の考えでたしなめた覚えなど数知れない。
二人の努力の甲斐あって、フィユーリンドはすこぶる真っ直ぐな、気性の良い子に育ってくれた。逆に言えば、ひどく皇族らしくない皇子に。
叱られればべそをかいて拗ねるくせに、フィエは彼らを煙たがることをしなかった。周りを見渡せば、幼い皇子に取り入ろうと言葉巧みに近付いてくる者達は掃いて捨てるほどいたというのにだ。
乳母であるシデュールの母はそういった人物をフィユーリンドには極力近付けまいと努めてはいたが、身分のない哀しさ、努力には自ずと限界がある。不埒な考えを持つ輩をフィエの周囲から完全に排除するなど不可能なことだった。
しかし、それでもフィエはシデュール達に懐いていた。叱られても怒られても決して二人を遠ざけようとすることなく、逆に下心を持ち、甘い顔をして寄って来る者達には見向きもせず。
きっと、聡明な皇子には分かっていたのだろうとシデュールは思う。いくら厳しいことを言っても、それが愛情から出るものなのだということを。皇族であれば当然のことなのかもしれないが、父も母もありながらたまにしか会うことも叶わない皇子の孤独を不憫に思い、その分までもあたう限りの愛情を二人が注いでいたことを。
だがそれも、もうしばらくの後には過去のこととなってしまうことが決定した。
フィユーリンドが乳離れし、シデュールの母は乳母としての役目を辞することが決まったのだ。
それはもちろんフィエの言い出したことではなく、彼の父親である皇帝の下した決断でもなく、実は、他ならぬ彼女自身の申し出たことだった。むしろ帝は彼女を強く慰留した。フィエが懐いているということもあったが、それ以上に、英邁な君主である帝は息子の導き手として彼女の資質を高く評価していたから。
けれども、彼女の決心を翻させるには至らなかった。
フィユーリンドは、彼女の言うことにはほぼ完全に従う。他の人間に対しては割と聞かん坊なところがあるくせに、同じことでも彼女が諭せば素直に耳を傾ける。
それはとても危険なことだと彼女は帝に奏上した。
皇太子という立場にあり、いずれ国を継ぐ身であるフィユーリンドに、それほど強い影響力を持つ人間がいることは決して好ましいこととは思えない、と。
帝はその危惧を笑い飛ばすことなく頷いたが、それほど深く気遣うことのできる存在を、逆に更に惜しんだ。
引き留める帝に対し、しかしシデュールの母は頭を振り、そしてはじめて弱音を吐いた。
買い被りだ、と彼女は言った。
自分は結局、どこにでもいる普通の人物に過ぎない。皇太子たるフィユーリンド、更には帝その人にまで、そこまで頼られるのは自分には荷が重い、と。
涙さえ浮かべて力なく項垂れる彼女を、さすがにそれ以上止めることは帝にもできることではなかった。
そうして、シデュール母子の里下がりは決まった。フィエの意見は何一つ…尋ねられることさえないままに。
それを知ったフィエは当然のように嫌だとごね、初めて「大好きな乳母や」の説得にも耳を貸さずに火のように泣き喚いた。
それでも彼女の決意を覆すことができないと悟ると、泣きながら部屋を飛び出していった。悲痛なその姿にはさすがに心揺れるものがあったのか、シデュールの母も逡巡に表情を翳らせたが、それでも最後までその口から前言を撤回する言葉は聞かれなかった。
それ以降フィエは彼らを避けるようになったが、話を聞けばきちんと食事は摂っているというし、敢えて構おうとはしなかった。いき過ぎた傾倒を是正させる良い機会だと考えたのかもしれない。
出立の時は、もう、一月の後に迫っていた。
一日、シデュールはフィエの姿を見かけた。
シデュールの母と入れ替えに任に当たることとなったフィユーリンドの新しい守り役の男は、聞き分けの良い皇子に驚きながらも満更でもない顔をしていたが、やり取りを見ていたシデュールの心は痛んだ。
フィエは確かに男の言うことに背くことなどなかったが、それはただ従順なだけだ。逆らう気力もない、といった様子で、シデュールの良く見知った、はちきれんほど好奇心に溢れ、生気に満ちたフィエらしいフィエの姿はその片鱗さえも窺うことはできなかった。
ためらいはあった。
だが、どうしても見ぬ振りをして捨て置くことができずに、シデュールは一人ぼんやりと佇む幼い皇子の傍に寄り、そっと声をかけていた。
「フィエ…」
ギンッと見開いた目でフィエは彼を振り返り、唇を噛み締めて睨みつけてきた。
けれど、待つほどもなくその表情は崩れ失せて、あっと思う間もなく小さな体は勢いよくシデュールに飛び付いてきた。不意を突かれて受け止め切れず、弾みでシデュールは尻餅をつく。
一緒になって転げながら、それでもしがみ付くフィエは離れず、そして…少年と呼ぶにも満たない歳の皇子は、声もたてずにシデュールの胸で泣いていた。
「フィエ…」
声を殺して泣くだなんて、そんな悲しい術を一体この子はいつの間に身につけたのだろうか。
そして、今、年端もゆかぬこの少年にそんな真似をさせている原因は、間違いなく自分にあるのだ。
そう思うとシデュールはたまらない心地がした。
涙を拭って、思い切り小さな体を抱き締めてやりたい。
もう、泣かなくてよいのだと、泣く必要なんかどこにもないと、慰めてやりたい。
けれど…、もう間もなく彼から離れてゆく自分が、安易なことを言う訳にはいかない…。
「泣くな…」
結局、シデュールはそれだけしか言えなかった。
「泣くな、フィエ。男は簡単に泣いたりしちゃいけないって教えただろう…?」
…本当は、だから子供時分には泣きたいだけ泣いておくように、と教えたのだけれど。すぐに、泣きたいと思っても泣けなくなる時はやって来るのだからと。
そのせいなのかどうか、フィエはやたらと涙腺が弱く、すぐ泣くようになってしまって、シデュールはいつぞやの自分の言葉を後悔したこともあった。
今も、そうだ。
自分にはうまい慰めの言葉を思いつくことができないのに、目の前でフィエは泣いていて。
どうしたらいいのか分からずにシデュールは大弱りだった。
ただ、泣いているフィエを放ってどこかへ行ってしまうという考えだけは露ほども浮かばなかった。
この幼馴染みが泣いているのなら、泣き止むまでずっと傍にいることは、シデュールにとって呼吸するのと同じくらいに当然のことだった。慰めることもできずに、ただ傍にいるだけなのだとしても。
どのくらいの間そうしていたか、二人はほとんど同時にフィユーリンドを呼ぶ声に気付いてハッと顔を上げた。
フィエは声のする背後を見返り、またシデュールへと顔を戻して行動の選択に迷うように逡巡する。
「…呼んでる。行っておいで」
シデュールは恐がらせないような笑顔を作って促すが、フィエの小さな手はまるで放したら消えてしまうとでもいうかのようにしっかとシデュールの胸元を掴んで放さない。
「…だ…」
「え?」
聞き返したのは、声が小さくて聞き取れなかっただけなのだが、それがまた涙腺を刺激したのかフィエは再びぼろぼろと大粒の涙を零し始めた。
「行っちゃ、嫌だ…。一緒がいい…。行ったら嫌だ…!」
シデュールは、何も言えなかった。
傍にいてやりたいと思うのはシデュールとて同じ。だが、母が去るというのに自分だけが残るなど、できようはずもなく。
「フィエ……」
やがて、フィユーリンドはグイッと荒っぽく自らの頬に留まる涙を擦り取ると、シデュールの胸倉を掴んでいた手で今度は彼の手を取り、歩き出した。
手を引く幼い力を振り解くことなど無論わけはなかったが、シデュールはされるままに付き従った。
もう残り少ない時間、できる限りの我侭を聞いてやろうと思ったのである。
それ以来、どこへ行くにもフィエはシデュールに付いて来たし、どこへ行くにも彼を引っ張っていき、片時も傍から離れなかった。
実のところ、未練を残すようなその行為が、フィエにとって本当に良いことなのかどうか分からないまま、伸ばされる手を振り払えずにシデュールはフィエのしたいようにさせてやっていた。
寝る時でさえシデュールに宛がわれた寝台に潜り込んでこようとするのにはさすがに閉口したが、追い出そうとしても聞かないのに根負けして、シデュールの方がフィエの部屋で添い寝してやった。いつ、誰に見咎められることかと冷や冷やし、フィエが寝付いたら出て行こうと思っていたのに、フィエはようやくうつらうつらしたかと思うとハッと目を覚ましてはしっかとシデュールの指を握り直す、というのを繰り返すので、結局朝まで目論みは果たされず終いだった。
夜が明け、皇子を起こしに来たシデュールの母は、そこで困った顔をした自分の息子と目を見交わして、驚いた顔をした。
「母様…」
叱られることを予測しておずおずと顔色を窺うシデュール。
けれども聡い彼女がその手に絡み付くフィエの手を見逃すことはなく、黙ってそっと怯える息子の髪を撫でてやった。
そんな日々が半月程も続いた。
どちらが手を引いているのか引かれているのか、とにかくいつも一緒にいる子らの姿は微笑ましく、後宮で遠目に大人達の頬を弛ませていた。
ただ、よくよく見れば、本人達の表情は硬いことに気付いたかもしれない。
それでもシデュールの方は少し困りながらも優しい表情をしていたが、フィエに至ってはシデュールの指先を掴む手と同様にキュッと唇を引き結び、ニコリともしない。
一体何が楽しくて一緒にいるのかと思うところだが、真実はそうではない。一緒にいてさえ不安なのだ。いや…不安というのもまた違う。いくら不安に思ったところで遠からぬ別れは既に大人達の間で決められたことなのだから。
ここのところ、夜中によく眠れていないせいなのか、日溜まりでフィユーリンドは睡魔に捕まった様子だった。
コクッコクッと舟を漕ぐ頭につられて倒れ込みそうになった体を慌てて支え、シデュールは自分の膝を貸してやる。
久し振りのすやすやと安らかな寝息だった。
あどけない寝顔。ずっと一緒に育ってきた、弟のような幼馴染み。
無心に自分を慕ってくる彼が、可愛いと思う。
離れたくない、とも……。
青い空を見上げ、幼いシデュールは言葉もなく嘆息した。
フィエの頭を膝に乗せ、自分もぼんやりとしていたシデュールは、ふと射した陰に気付いて顔を上げる。
逆光に一瞬眉をしかめ、目が慣れてくるに従ってその大柄な人影が何者であるのかを悟ってシデュールは息を呑んだ。
「皇子が世話をかけるな、シデュール」
直接に声をかけられ、なお驚く。
「こ、皇帝陛下…」
焦って居住まいを正そうとして、フィエを押し退けねばそれもできないことに気付き、硬直する。
目線を合わせるように身を屈め、慌てふためく様に目を細めて帝は忍び笑った。そして、よい、と少年を制止する。
「済まぬが皇子を寝かせておいてやってくれ」
帝は告げ、折りしも寝ながらもぞもぞと身動いだフィユーリンドの滑らかな頬を愛しげに軽く撫でた。
そうして固唾を呑んで見守るシデュールの前で、彼は腰を落ち着けてしまう。丁度、フィエの体を挟んだシデュールの反対側に。
「これは、本当にそなたによく懐いておるな」
「い、いえっ、あ…あの」
のんびりと声をかけられても、普段遠目にしか見かけることのない雲上人を前にして小さな胸をドギマギさせているシデュールには、まともな受け答えなど不可能だ。
頬を紅潮させて口ばかりを空しく開閉させるシデュールとは対照的に、帝はどっしりと動じない構えだった。彼には動じる理由などないのであるから当然といえば当然のことだが。
「そなた達には、本当に感謝しておるのだ。これをよく育ててくれた…」
眠る皇子の背をてん、てん、と柔らかなリズムであやすように叩く。
「陛下……」
シデュールは、どうしてそんなことが自分に言われるのか分からず、戸惑いを隠せない。腰を下ろしてもまだずいぶんと高くある目を見上げると、帝はふっと微笑した。
「相済まぬが、そなたらの出立を見送ってやれそうにないのだ。だが、一度きちんと話しておきたくてな」
浮かぶ困惑の思いをそのままに、シデュールは陛下、と小さく呟く。
「…機会があれば、またいつでも皇宮に訪ねて来るがいい。これも喜ぼうから」
簡単に言ってのけた帝にシデュールは驚きを露わにした。
「陛下…、そのような、わ、私などに…」
慮外のことである。本来シデュールは皇宮に上がることさえ心許ないような、地方豪族の身分に過ぎないのだ。餞というには過ぎた帝の言葉だった。
「構うことはない。友人に閉ざす門は持っておらぬよ」
言って、友人との表現に目を見張るシデュールの髪を大きな掌でクシャッと撫でると、帝はゆっくり立ち上がる。
「息災でな」
かけられた言葉に精一杯シデュールが頷くのを見届けると、男らしい容貌には意外なほどの柔らかな笑みが浮かんだ。
いよいよ出立という日。
別れの日だということは分かっていたはずなのだが、フィユーリンドはこの日朝から姿を見せなかった。
シデュールの母は少し淋しげな微笑を浮かべ、それでも、仕方がないと諦めた様子だった。
「それでは、皆さん、これまで本当にお世話になりました」
乳母として仕えた数年間に親しくなった同じような身分の下働きの女達に向かい、親子揃って丁寧に頭を下げて最後の挨拶をすると、用意の馬車に乗り込む。
馬車が走り出してからもシデュールは名残惜しく頭を下げ手を振り、何度も何度も振り返ったが、見送りの人々の中にフィエの小さな姿を見出すことはどうしてもできなかった。
口に出すことはなくとも、母親には気持ちなどお見通しだったのだろう、彼女はシデュールの手をギュッと握ってくれた。
国境にも近いシデュールの実家は、帝都から3日の旅程である。決して近い距離ではない。長旅の始まりだった。
ところが、未だいくらも行かぬ内。
「おーい、その馬車、止まれ!」
「えっ? うわぁっ!」
幾分荒い掛け声と共に突然進路へ割り込んできた騎馬に、御者は慌てて手綱を引いた。
急な制動に車内にも激しい振動が生じる。
体重の軽さ故に座席から放り出されかけた我が子を庇いながら、シデュールの母が何事かと腰を浮かせる、それよりも先に騎馬の方から声をかけてきた。
「済まぬ、許せ…」
聞き覚えのあるその声に目を見開き、急いで彼女は箱の扉を開く。
「陛下…!?」
聞き違いではなく、軽く息を弾ませながら外にいたのは、まさしく帝その人だった。
動転しながら馬車を下り改めて馬上を見上げる。
「い、いかがなさいましたか、陛下…?」
余程無茶な走らせ方をしてきたのだろう、ハァハァと荒い呼吸の馬の首を叩いて宥め、帝はその体躯からは思いがけないほど軽妙に地面に下り立つ。
「…済まぬ」
もう一度、詫びの言葉を口にしてから帝は要件を話した。
「実は、皇子の姿が見えぬのだ…」
「えっ? フィユーリンド様が!?」
「そうだ」
重々しく頷き、更に帝は付け加える。
「最初はどこぞに隠れてでもおるのだろうと気にも留めておらなんだのだが、どこにもおらぬのだ。それで、もしやそなたらについていったのではあるまいかと思うてな…」
それで、慌てて追ってきたのだと帝は言った。
「済まぬが、馬車を改めさせてもらえるか?」
「は、はい…。それはもちろん、御意のままに」
ありがとうと軽い頷きで謝意を示し、シデュール母子の見守る中、帝は後続の者等に指示を与え、車内を荷物の中に至るまで徹底的に調べた。しかし、さして広くはないスペースの全てを調べ終わっても、そこからフィユーリンドを見つけ出すことは叶わなかった。
「おらぬか…」
安堵したような、更なる焦慮に見舞われたような、複雑な面持ちで帝が吐息をつく。
思い余って、シデュールは帝の前に飛び出した。
「陛下!!」
「シ、シデュールッ」
焦る母に目もくれず、真っ直ぐに長身を見上げる。
「うん…?」
帝は、子供の戯言と一蹴することなく、シデュールの目線まで屈んで尋ねた。
「どうした、シデュール?」
その眼差しは穏和ではあったが、さすがに緊張して、シデュールはゴクリ、と唾を飲み込む。
「フィ、フィエは…」
声は最初震えたものの、先を促す目の色に勇気付けられ、シデュールはそこからは一息に告げた。
「フィエは、確かに我侭だけれど、本当にやっていいことと悪いことの区別はちゃんとつきます! 皇宮を抜け出したりしてない…、絶対に、皇宮のどこかにいます!」
帝はニコリともせず真剣な眼差しでシデュールの言うことに耳を傾けていたが、シデュールが口を噤んでしばらくの後、不意に相好を崩した。
「…そうか。ありがとう、シデュール。そなたはよい子だな」
「陛下…」
おろおろとして、母は不安げに背中から息子の肩を抱き締める。
「騒がせて済まなかったな。道中、気をつけて行くがよい」
そんな彼女にも笑みを向けると帝は身を翻した。
「帰るぞ! もう一度皇宮内をよく探すのだ!」
「へ…陛下!!」
周囲に声をかけながら二、三歩行きかけた帝を、シデュールは思い切って再度呼び止めていた。
嫌な顔はしなかったが、不思議そうに見返った彼の目を見詰め、乾く唇を湿してシデュールは、言った。
「僕…いえ、わ、私は、皇宮に留まってはいけませんか…!?」
「…っ!」
声こそあげなかったものの、息を呑む気配がして、シデュールの肩に置かれた手には強い力がこもった。
だが、シデュールは止まらなかった。
待っていると感じたのだ。
フィエは、シデュールが探しに来るのを待っている、と。
自惚れかもしれない。
仮にも皇子たる身に対し、思い上がりかもしれない。
それでも、シデュールはそう感じたのだ。
フィエは、他の誰でもない、シデュールを待っていると。
「お願いします、陛下…!」
母を背に負った格好のまま、必死の形相で見上げてくる少年を、帝は戸惑いを含んで見返した。
「…いや、それは…むしろ、こちらから頼みたいくらいだが…。…しかし、よいのか?」
それは、母と子とどちらに向けたとも知れない、否、おそらくは双方ともに向けられた問いだった。
交互に見比べる視線に、母の存在をようやくあっと思い出してシデュールは顧みた。
「母様……」
母に、断りもなく勝手なことを言ってしまったと、悔いる思いが小さな胸に湧き起こる。
だがそれは、言ってしまったという事実そのものに対するもので、発言の内容を覆そうとはちらともシデュールは思わなかった。
思い詰めたような眼差しと、それでも全幅の信頼を預けた視線とが、僅かの間に行き来する。
やがてその見交わした目を先に外したのは、見下ろしていた母の方だった。
一度、固く、目を瞑る。まるで、激しく揺れる心の葛藤に耐えようとするかのように。
そして、再び目を開けて帝に向けた瞳は、静かだった。凪いだ湖面を思わせる、穏やかな色をしていた。
……一雫の哀しみを除いては。
しがみ付くような姿勢になっていた我が子の背をそっと押しやり、彼女は無言の内に帝に向かって深く深く頭を下げた。それが、答えだった。
よいのか? とは、帝はもう言わなかった。母子ともに意志が決まっているというのなら、口を挟む筋合いでは既にない。
「分かった。そなたの息子、余がもらい受ける」
異論を許さぬはっきりとした口調で断言し、それからやや、声音を和らげ更に告げる。
「案ずるな、けして悪いようにはせぬから…」
息子を手放そうとする母親は、一段と頭を垂れたのみで声に出しては何も答えようとはしなかった。答えられなかったのかもしれない。込み上げる涙をこらえるためには…。
「長らくの務め、ご苦労だった。道中気をつけて行くようにな」
そのまま居ては、自分からは彼女がいつまでも動けないことを察して、帝は未練がることなくサッと身を翻した。
「母様…」
ごく小さな声を聞き取った証のようにビクリと肩が震える。けれども顔を上げない彼女を数秒見詰め、思いを振り切るようにシデュールもまた先を行く帝を追い、タッと駆け出した。
愛馬の傍らに佇む帝の元まで辿り付いたかと思うと、脇の下に手を差し入れて軽々と抱き上げられた。え、と思う間もなく馬上に跨らせられる。
「へ、陛下、自分が…っ」
シデュール自身にも劣らぬほど狼狽し、慌てて少年を引き受けようとする随行者等を手で制して帝は自らも身を撥ね上げて馬上の人となる。
そしてシデュールの体越しに手綱を取り、「行くぞ」とかけた言葉の残響も消え去らぬ内、すかさず馬を煽った。
じっくりと別れを惜しむ暇も与えない、慌しさ。
おそらくは、母のため、また子のため、敢えて帝はそうしたのだった。
これ以上長く哀しみをこらえなくて済むように。
哀しみに思い至る隙を与えぬように……。
つい先刻、出てきたばかりだった皇宮に帰り着くや否や、シデュールは周囲の大人達には目もくれず、一人矢の勢いで飛び出していった。
慌てて引き止めようとした者は、帝その人が制止する。彼には、結局のところシデュールが一番早くに小さな皇子を見つけ出すだろうという予感があったのだ。
確たる根拠もないながら帝には自信があったし、結果としてその勘は正しかった。
とはいえ、無論全てを少年だけの肩に負わせるつもりも毛頭なく、帝は帝で改めて皇宮内を探すよう指示を下した。
一方の、シデュール―――
帝の思惑の通りに、彼にはフィエの居場所にいくらかの心当たりがあった。
他に遊び相手とてなく、二人して宮殿内を駆けり回ったのだ。皇宮は、彼らの広大な庭だ。
いないだろうと思いながらまずはそこかしこから探し始め、やはりいないということを確認すると、シデュールはフィエのとっておきの隠れ場所に潜り込むべく、勇ましく袖を捲った。
そこは、大人には行くことのできない場所だった。……いや、行こうと思えば行けるのだろうが、少なくともフィエやシデュールと同じ道を辿ることはできない。何しろ彼らときたら、古くなって朽ちた塀の破れや、生け垣の僅かな隙間を縫ってそこへ入り込んでゆくのだ。まだ体の小さな子らだからこそ為し得る業で、到底大人に真似のできることではない。
そして唐突に、視界は開ける。
そこは、皇宮内でも今は使われていない小さな離宮の一つだった。窓という窓にはしっかりと雨戸が閉てられ、もちろん入り口にも厳重に鍵がかかっている。
いつか、ふとした折りにその建物に興味を持ち、またしても大人では想像もつかないような小さな破れ目から内部へ侵入を果たしたのが最初の話だ。
宮の中は所々から入ってくる明かりもひどく頼りなく、薄暗い。閉め切られているために空気は埃っぽく、雰囲気は陰鬱だと言っていい。
建物自体は、外から眺めれば古いとはいえ中々に瀟洒な造りなのだが、一度内に入れば、何分頼りとなる光源のないがゆえにどことなく不気味な印象のするのは否めなかった。
けれどもフィエはその隠れ処的な様相が気に入ったらしく、中でも二階一番奥の大きな絵の掛けてある部屋は大のお気に入りだった。
きっとそこにいると確信して、シデュールは他の部屋部屋には見向きもせず、真っ直ぐに奥を目指す。とはいっても忍び込んでいる悲しさで、真っ当な通路を通れば扉の鍵に阻まれるので、壁裏、天井裏をいざる涙ぐましい前進だ。
そうして、ようやく行き着いたその場所に。果たして、フィエは、いた。
暗がりに慣れた目を更に凝らして暗がりを透かし見ると、ろくに見えるはずもない肖像の正面に座り込み、ぼんやりと膝を抱える人影が捉えられた。フィエだ。
生気に乏しい横顔。一体どのくらいの間ここでこうしていたのか…。
そんなことに思いを馳せながら、シデュールは意を決して声をかけた。
「フィエ……」
けれど、聞こえたことを示すように確かに肩口がピクンと揺れたのに、フィエは顔を上げようとしなかった。
少し間を置き、もう一度、シデュールはやや強めに声を出した。
「…フィエ!」
今度は、ハッと顔を上げ、フィエはゆっくりと顔を振り向かせた。
「シ…デュール…?」
不安げな、思い切り心細い声色。
大きな目でしきりと瞬きを繰り返す。それでも飽き足らず、ゴシと目を擦って。
「消えない…本物…?」
おずおずと手が伸ばされてくる。
「シデュール、本当に、本物…?」
手に触れた彼の服の裾をギュッと握り締め、フィエは再びそれを言った。
「本物って…。そうじゃなきゃなんだって言うんだ? まさかフィエ、もう俺の顔を見忘れてしまったとでも?」
その抱える不安の正体など想像もつかないけれども、せめて震えを慰めてやりたいと思う。
シデュールはフィエに笑いかけ、その背中に手を回してポンポンと軽く叩いてやった。
途端、小さな体は腕の中に飛び付いてきた。
「シデュール、シデュール、シデュール…」
他には何も言葉にならない様子で、ただただシデュールの名前だけを繰り返し、わあっとそれは派手にフィエは泣き出した。
泣きじゃくるフィエに言葉はない。けれども、しがみつく手が何もかもを表している。言葉にするよりもずっとずっと強く、彼の心を伝えてくる。
「…行かないよ、どこにも。お前が望むなら、俺は、ずっとお前の傍にいてやるよ…」
それに応えるかのように、シデュールの口からは自然と思いが溢れ出していた。
子守唄のように柔らかな心持ちで、シデュールは言葉を紡いだ。
「ここにいる。俺は、ちゃんとここにいるよ、フィエ…」
シデュールはフィエが泣くのを邪魔しようとはせず、時折言葉をかけながら、気が済むのをただじっと待ち続けていた。
何代か前の皇妃か誰かの肖像画―――微笑を含んだ双眸が、少年達を頭上から柔らかく見守っていた。
はあ、とまた一つ溜め息。
今日だけで、もう何度目になるともしれないほど繰り返した行為。
美味くもない酒をチビリチビリとやりながら、シデュールは記憶を脳裡に反芻していた。
……分からない。全然、分からない。
一体、何を考えているんだ、アイツは…。
思案を持て余しながら飲む酒が、いつにもまして快い酔いをもたらそうわけもなく。
どうしようもなく溜め息は尽きなかった。
右の手には古ぼけた一本の鍵がある。芝居がかっているほどに大振りなそれは、一見するだけでも感じられる年代物だ。
丁寧に細工の施されたそのキィは、それだけでちょっとした装飾ともなりそうだ。
まとまらない思いのままに、意味もなく手の内に遊ばせる。
古い鍵。…古いけれども、立派な。
見覚えはない。
しかし、心当たるところははっきりとあった。
軽く宙に跳ねさせる。
パシンと軽い音をさせて受け止める。
握り締める。
目を瞑っても、冷たい金属のその存在感は消えはしない。夢じゃない。
―――なかったことには、ならない。
はぁーっとシデュールはもう一度腹の底から息を吐き出し、思い切るようにグイッと勢いよく杯を干した。
それきり、まだ空くには程遠い様相の酒瓶にはもう見向きもせず、席を立つ。
「主人、勘定を…」
END