手の内は明かさない

「早い
タンッと的の中心を射抜き、弓を倒したその途端に厳しく決め付けられて、三井はビクッと肩を揺すらせた。
恐る恐ると声の方を見返れば、道場の後部にある入り口に腕組みをした見慣れない男が一人。
三井が自分を認識したと見るや、男はそのままツカツカと歩み寄ってきた。
ザワリと、三井ではなく周囲が色めき立つ。
「岩清水さん
喜色の浮き出た歓声をあげ、忽ちの内に輪を作ろうとした部員達を手だけで制し、男は一人で三井のもとにまでやって来ていた。
「お前、1年? 名前は?」
三井は戸惑いを覚えつつ、周りの反応からしておそらく部のOBなのだろうと見当をつけ、軽い会釈と共にごく丁重に答えを返した。
「工学部1年の、三井浩輔です」
「ふーん。三井、ね。俺は、岩清水」
名乗り返してはもらったものの、他に言うべきセリフとてあるわけもなく、三井ははあ、と曖昧に言葉を濁した。
「1年のこの時期から的前(まとまえ)ってことは、お前経験者か?」
三井の困惑になどお構いなしで、岩清水という男は次々と質問を浴びせてくる。
「あ、はい。高校の部活で3年間引いてました」
「ふん…。道理で」
ぞんざいな物言いはどこか含みのあるもので、何とはなしカチンとする。
「何なんですか、一体」
それを、隠す必要があるとは思わず、三井は不機嫌を露わにした。
「お前、(しゃ)が雑。早いよ」
気短な様子の1年坊主に、岩清水の方はふっと苦笑気味に力を抜いて、端的に告げてやった。
「特に(かい)。全然なってない」
「なっ…」
三井は、ムッとする。
「冗談でしょう。あんたどこ見てんですか。俺は会7秒は保ってますよ。そりゃ長い方じゃないかもしれないけど、早気というには当たらないはずです」
「秒数じゃねえよ」
勢い込んで反論した三井を、岩清水は一言で切り捨てる。
「お前の会は、会じゃない。ただ弓を持ってるだけだ。そんなじゃ心気の充実なんざありやしねえよ」
「な…んだよ、それ…」
声を張り上げているわけでもないのに、岩清水の言葉は反駁を許さない何かを秘める。
「なんで、あんたにそんなこと…」
「分からないのは、お前が弓を分かってないからだ。いいか。弓道ってのは、結果じゃねーんだよ。大事なのは、過程だ。詰めたの抜いたので騒いでるようじゃ、いつまで経っても弓道の真髄になんざ近付けないぜ」
道場内は、いつの間にかシンと静まり返ってしまっていた。勇んで岩清水を取り囲もうとしていた連中も、機を逸して少しも動けないでいる。
そんな中、弓具を抱えて新たに道場へ入ってくる人影があった。
「あっれ、岩清水さん いらしてたんですか?」
頓狂な声をあげた彼を顧みて、岩清水は親しげに左手を挙げて応える。
「よう、嶋田。邪魔してるぜ」
「いえいえいえ、邪魔だなんてとんでもない…。先輩でしたらいつでも大歓迎ですよ。女子も喜びますしね」
とぼけたセリフに、その女子から同意を示す黄色い声が小さく追従する。
思わず苦笑する岩清水の脇を通過して、弓道部現主将、嶋田義明は神棚に向かって礼拝を済ませてから、改めて近付いてきた。
「おっ、もう三井に目を付けられたんですか? さすが、お目が高い。いいでしょう、コイツ?」
屈託のない嶋田の言葉に、つい今し方けちょんけちょんにこき下ろされた超本人であるところの三井は憮然とし、事の次第を心ならずも目撃してしまっていた他の部員達はハラハラと成り行きを見守る。
そんな中、岩清水はゆっくりと微笑した。
「…そうだな。安定してそうだし、試合になれば心強い戦力なんじゃないのか?」
「試合なら」と区切りをつけた岩清水の真意になど気付かず、嶋田は「でしょう?」などと嬉しげに相槌を打っている。
そうこうする内にぎこちなかった雰囲気ものほほんとした嶋田の前にはいつしか雲散霧消して、遠慮がちに遠巻きにしていた人間達も、中の一人が声をかければ、そこからは済し崩しであっという間に岩清水の姿は群がる人垣の中に埋もれていた。
抜きん出た長身という訳でもなく、ともすれば人の中に隠れそうな頭から、三井は目が離せずにいた。
嶋田は気が付かなくても、評された当人である三井にしてみれば持たされた含みに気付かずにいられるはずがない。
「…ンだよ。ワケ分かんねーこと言いやがって…。中ってんだから、ケチつけてんじゃねえよ…」
ごく小さな呟きが、聞こえたはずはないのだが、計ったようなタイミングで岩清水がクルリと顔を振り向かせた。
カキッと音がしそうなほどバッチリ目が合ってしまい、三井はごくっと唾を呑む。
岩清水は、唇の端でフッと笑った。
挑発するように。
三井は、反射的に頭に血が上るのを止めることができなかった。

それ以来、ちょくちょくと部に顔を出す岩清水と暇さえあれば弓を引いている三井とは、嫌でも頻繁に顔を突き合わすようになり、会えば三井は必ず小言を食らっていた。
「お前さあ…、他人の射って全っ然見てないだろ…」
この日も、ついさっきまで頼まれて三井の前的で引いていた女子学生にアドバイスを与えていたはずなのに、気が付けば岩清水の目は三井の方を向いている。
図星を指されて三井は一瞬鼻白むも、すぐさま居直り開き直る。
「それがどうかしましたか。関係ないでしょう」
「大アリだっつーの…」
岩清水はこれ見よがしにはあっと派手に溜め息をつく。
「弓は、ただがむしゃらに引いてりゃ上達するってもんじゃないんだぞ」
三井は顔をしかめた。
人当たりが良く、適確な指導をしてくれると弓道部では大人気の岩清水だったが、三井にとっては鬱陶しくて鬱陶しくてたまらない存在だった。
それは、三井とて自分の射型が完璧だなどと自惚れるつもりは毛頭ない。身になるアドバイスであれば、傾聴するにやぶさかではないと思っている。
だが、はっきり言って、岩清水の言うことはこうるさいばかりで何の役にも立たないのだ。ただただうざったいばかり。…少なくとも三井にとっては。
「がむしゃらに引いてるつもりなんてありませんよ。大体、練習したからって上手くなるとは限らないけど、練習もせずに上手くなるわけはないでしょう。練習することの何が悪いんですか」
「そういうことを言ってるんじゃねえよ…」
何を言っても気に食わないとばかりに噛み付いてくる三井を持て余すように力なく首を振りながら、岩清水は髪を掻き揚げた。
「お前、見取り稽古って知らないのか? 他人の射を見るのだって、立派に稽古の内なんだよ。自分にばっか集中してないで、もうちょっと視野を広く持ってみろよ」
きっと、岩清水の言葉には耳を傾けるに値する、真実の欠片くらいは含まれている。
心の奥底ではそれを認めていながらも、三井はどうしても素直になれず、つい意地を張ってしまう。
「必要ないですね。こう言ったらなんですけど、今のこの部に俺より上手い人なんていないでしょう」
けんもほろろ、取り付く島もない三井の態度に岩清水は再度吐息をついた。
「…サイアクだな、お前」
ボソリとした呟きは低かったが、聞き捨てならない不穏当な響きに満ちた代物だ。
カッとして、瞬時に頭に血を上らせる三井は、さながら瞬間沸騰湯沸し器。
「どーゆー意味ですか」
岩清水のスッキリと端正な顔を睨み付けながら、こちらも低く応じる。
「言葉通りの意味だろ」
そっけなく年長の男は答え、そのまま三井から離れて他の部員の元へと去ってしまった。
後に残されたのは、やる方ない憤懣をたぎらせた三井ばかり。
とうに引き終えているにもかかわらず、突っ立って岩清水の後ろ姿を見詰めたまま射位(しゃい)を外そうとしない三井に、おずおずとした声がかけられる。
一瞬チラッとそちらを見てから、足取りも荒く三井はその場を譲った。
ガンッと乱暴に弓を立て、勢いのままに出口を目指す。
「おい、三井…」
あまりの乱雑さが不安を呼んでか、何者かが声をかけてくる。
「矢取りに行って来ます
それへ三井は無用に大きな声でもって返して、雪駄(せった)を突っかけると宣言通りに矢取り道をガシガシと歩いた。
型どおりの合図、掛け声、色代(しきたい)
見るからに不機嫌の相が見て取れる三井の後を追って来た者はなく、大量に刺さった矢を一人で始末するのにはそれなりの時間を要する。やっと全ての土を拭った矢を抱え、三井が道場へ戻ったときには、岩清水は既に帰った後だった。

そんなある日、夜中にやって来た三井は、明かりの灯る道場に驚いた。
こんな時間にまで引きに来る酔狂者は自分くらいのものと自負しており、それは密かに自慢でもあったのだ。
誰かがいるとなると退屈はしないかもしれないが、なんとなく少し悔しい。
だが、明かりが点いており、確かに人の気配もするというのに、一向に弦音(つるね)は聞こえてこない。
引いているのでないのなら、一体ここで何をしているのかと三井は首を傾げた。
音を立てないようにそぉっと中を覗き込み、彼は目を見張った。
中にいたのは、岩清水だった。何をするでなく、道場の真ん中辺りに端座して目を閉じている。
道着を着ているわけでもない普段着の出で立ちなのに、その姿はしっくりと場に馴染み、溶け込んでいた。
何もしてはいない。何てことない…。
そう、思っても、凛と清しい空気は破るに忍びなく、声をかけられずに三井は呆けたようにぼうっとしていた。
いや、正直に言おう。見惚れていた。
そうしたまま、どのくらいの時が流れたろうか。
やがて岩清水はゆっくりと開いた眼差しを廻らし、そこに立つ三井の姿を認めてさすがの彼もうろたえたようだった。
「な…んだ、お前…。いつからそこに……」
動揺を示すどもる口調はいつもと違い、愛嬌らしきものがある。
珍しい、と思いながら、三井も今日は突っかかる気にならず、素直に答えを返していた。
「15分くらい前ですよ。来たらあんたいたんで、何してるのかと思って見てました」
「そうか…。引きに来たんだよな? 悪い、邪魔したな」
やり取りする内に段々と落ち着きを取り戻し、岩清水は柔らかい微笑みを浮かべた。
三井は表情には出さないよう咄嗟に自制したものの、ドキリと心臓の高鳴るところまでは止められない。
なんてカオすんだよ、この人。こんな笑い方も、できるのか……。
「別に…邪魔とかは、思ってないですけど。今からでも引けるし」
向かい合っていると折角隠した心中を読み取られそうな気がして、不自然でない程度に急いで三井は目を逸らし、できた間を埋める為にわざと音を立てて弓具の準備を始めた。
「あんたは、自分では引かないんですか。学生の頃ほど時間は取れないったって、全く引けないってことはないでしょう、あんだけしょっちゅう顔出してるくらいなんだから」
こんな時間の、誰もいない道場にまで一人でやって来るくらいだ。相当弓が好きなんだろうに。
皮肉でもなんでもなく、すんなりとそう思える。
だが、これだけ度々遭遇していながら、三井は彼の引く姿は一度として見たことがないことにようやく気付き、率直に疑問を口に出していた。
「何なら、今から引いてみます? 誰もいないし、道具はそこらへんのを適当に使っても構わないと思いますよ」
言いながら三井がクルリと振り返ると、岩清水はなにやら複雑な面持ちをして、彼の顔を見詰めていた。
まるで動かない凝視は、どうしたって居心地が悪い。
「…何すか」
目を合わせれば、魅入られる。離せなくなる。
本能的に悟って、三井はゆがけを着ける手許に意識を集中した。
視界の外で岩清水が静かに吐息をつく気配を感じた。
「いや…。俺は、引かない。自分で引くのは、止めたんだ……」
「へぇ」
何やら曰くありげな雰囲気を三井は敏感に感じ取っていたが、それ以上触れるのは止めておいた。ろくに親しいわけでもない自分がズケズケと問い詰めるのは、無神経なようで気が引ける。三井も、人が思うほどに傍若無人なわけではないのだ。
「だとしたら、自分で引きもしないのに、いっつも後輩の指導にだけ来てるわけですか。ずいぶんなお人好しですね、あんた」
岩清水は苦笑したようだった。
「かもしれないが…。いいんだよ。俺は、ここの空気が好きで来てるから」
言って、岩清水は本当に大切そうに目を細めた。
真摯な想いの透けるその表情に、また、惹き付けられそうになって、三井は慌てて目を逸らす。
「そんなもんですかね。このボロ道場が…」
聞くところによると戦前の建立だという建物を見渡して正直に評すると、岩清水は声をあげて笑った。
「そんなもんなんだよ ホラ、お前くっちゃべってないで、さっさと始めろ。見ててやるから」
「げぇ…。それは遠慮しますよ…。あんた、口煩いんだもん…」
心底嫌そうな顔をする三井を、岩清水はニヤニヤ笑いを浮かべて見守り、立ち去ろうという素振りは全く見せない。
諦めて、顔を引き締め三井は執弓(とりゆみ)の姿勢をとった。

トッと、詰めた時特有の少し高い音を聞き届け、三井はゆっくりと弓を下ろす。
「おーお。相変わらず良く中ってんなあ」
ペチペチペチと気の抜けるような音で、見ていた嶋田が手を打った。
三井はチラリとつい今し方引いた的へと目をやる。そこには、中心を僅かに外した位置に6本ほど刺さった矢が見て取れた。
「…どうも」
屈託なく笑いかけてくる嶋田に、三井はペコリと頭を下げる。
「最近調子はどうよ、自分では?」
どちらかといえば戸惑い気味の三井の心中になど斟酌はせず、嶋田はそのまま言葉をつなげた。
「別に…先輩の見た通りでしょう」
立て続けに6本詰めたのをその目で見た直後に調子など聞かれても、困るというものである。何と答えろというのだ。絶好調、とでも?
「そうか? じゃあ、今の調子落とさずにキープしていけよ。次の試合ではお前を使うことも考えてるから」
嶋田はそれを、何でもないことのようにサラリと言ってのけたが、言われた三井の方はかなり驚いた。
「え…でも俺、まだ1年ですけど」
体育会系ならどこもそうだと思うが、部活というものは年功序列の厳しい世界。いくら実力があったとしても、入部間もない1年坊主を試合で使うなどと狂気の沙汰と思うのだが。
「あー、関係ない、関係ない。俺、そーゆーの気にしない性質だから」
手をひらひらと振りながらの嶋田の言。
「お前の高校ではどうだったか知らんけど、この部は実力主義だ。使えると思ったら1年でも使うし、結果を出さなければ外す。この俺だってそれは例外じゃないんだぜ」
ニヤリと唇を捻り上げながら嶋田の語る言葉に、三井は再度驚愕する。
「って、え……。だって先輩は、主将……」
思わず、目の前の人を指してしまいながら、三井は目を瞬いた。
それは、彼だとて人間なのだから好不調があるのは当然の話だが、だからといって部の要であるはずのところの主将が(たち)を外れるなどと、三井の常識では考えられないことだった。たとえ中らずとも、立の精神的支柱として皆を支え続ける―――それが、三井の思い描くところの主将像だ。
もっとも、問題はそれ以前、中らないような人間を主将に選ぶな、というのが根底のところにはあるのだが。
三井がそう言うと、嶋田は呆れたように肩を竦めてみせた。
「大時代的だなあ。……まっ、実を言えば数年前まではうちも大きなことを言えた義理じゃあなかったんだけどな」
あっけらかんとのたまう嶋田に、どういうことかと聞き返す。
「岩清水さんがさ。…ホラ、お前も知ってるだろう? あの人が、部の方針を変えたんだ」
「へぇ…。そうなんですか」
気のない三井の返事を知ってか知らずか、嶋田はペラペラとのべつ幕なし喋り続ける。
頼みもしないのに色々教えてはくれたが、興味がなく、右から左に聞き流した三井が理解したのはただ一点、嶋田は岩清水に相当心酔しているらしいという、それのみだった。
極端な話、三井にとって岩清水の人柄など何ら価値のあるものではないのだ。興味を持つとすれば…。
「先輩。あの人の射、そんなにすごいんですか?」
ふと思い立ち、三井は嶋田に尋ねた。
三井自身は一度も目にしたことのない、岩清水の引く姿。けれど、共に在学していた時期もある嶋田ならば、確実にそれを見たことがあるはずだった。
「ん、見てみるか?」
あっさりとそう答えた嶋田に三井は目をパチクリさせる。
「え……」
どういう意味だ。
呆気に取られる三井の返事も待たず、来いよ、と言って嶋田はクルリと踵を返した。

「えーと、確かこの辺に…」
部室に入り、嶋田は棚の中をガサゴソと探る。カチャカチャと音を立てる物の正体は三井の位置からは見えないが、どうやら8ミリテープらしかった。
「お、はっけ〜ん」
浮かれた声をあげ、プラスチックのケースを摘み上げた手をかざして軽く片目を瞑ってみせる。
三井は、もうどうにでもしてくれという心境だった。
はっきり言って、退屈している。
実のところ三井は他人には興味のないタイプ。
岩清水のことを訊いたのだって、ちょっと話が聞ければそれでよかったというのに、連れ込まれるままに部室に戻り、ビデオで他人の射を見なければならないというのには考えるだけでも閉口した。実物ならまだしも、撮られたものを小さな画面で見て何程のことがあろうか。
しかも、相手が主将とあってはそうと言うわけにもいかないのがまたストレスだ。
溜め息を噛み殺して三井は、鼻歌混じりで上機嫌な嶋田が準備を整えるのを待っていた。
テープをデッキに挿入し、再生を始める。ザッと僅かなノイズを発した後、画面はすぐさま射場を映し出した。
「これが、俺が1年、岩清水さんが3年で主将になったばっかりの秋だから……約3年前だな」
「そうですか」
三井と嶋田とは3歳の年の開きがある。
その嶋田と2学年違いなら、岩清水は自分とは5歳違いというわけだ…。
ぼんやりと頭でそんなことを計算する。
と、何を思ったのか嶋田がいきなりテープを早送りし始めた。
三井は唖然と目を瞬かせる。
「先輩?」
早送りされるコマの中にはしっかりと岩清水の姿が見て取れることを思えば、彼が何を考えているのか分からなかった。
「ん、まあ立でもいいんだけどな。これよかもっといいもん見せてやるよ」
そう言って嶋田がテープを止めたシーンを見て、三井はハッと軽く息を呑んだ。
「…納射(のうしゃ)ですか?」
「そそ」
試合らしい喧騒に満ちた先程の場面と違い、映し出される情景は画面でも分かるほどにシンと水を打った静けさだった。
やがて、深く腰を折って岩清水が道場へと入場してくる。伏し目がちに目線を落とす様も堂に入り、背筋も伸びて姿がいい。
初め斜に構えて眺めていた三井だったが、知らず知らずの内、箱の中に映る男の一挙手一投足を身を乗り出して見るようになっていた。
体捌きから足の運び、ほんの小さな指先の動きに至るまで、完璧に無駄も隙も狂いもない。
動は流れるように滑らかに、静は飽くまでも凛として。弓の道における美というものを、まさに体現するかのようだった。
弓構え(ゆがまえ)から打ち起こし、理想的な軌道で引き分けて会に入り―――離す。
カメラが放たれた矢を追うまでもなく、三井は甲矢(はや)が正しく的の真心を射抜いたことを信じて疑わなかった。
抜くわけがない―――そのくらい、完成された射の何たるかを見せつけられた思いがする。
続いて乙矢(おとや)を番えた岩清水の次の挙動を見て、三井は思わず声をあげていた。
「…え?」
腰を切った岩清水は、そのまま立つことなく片膝を立てたのみで胴造り(どうづくり)の構えを取ったのだ。
回り続けるビデオを一度止め、ニヤリと、嶋田が実に嬉しそうな笑みをした。してやったり、というカオだ。
「驚いたか? 割膝(わりひざ)だ。うちの流派独特の体配(たいはい)
呆然と現主将を務める男の顔を見返して、二、三度三井は瞬きした。
「あんなんで、まともに引けるんですか? メチャ不安定に見えるんですけど…」
いかに岩清水といえども―――
不信を露わにした三井に、嶋田は呵々と声をあげて笑った。
「まあ、見てな」
嶋田の声と共に再び動き始めた岩清水は、重心の定めにくい体勢ながら、確かに嶋田の自信にそぐうだけの安定感を誇っていた。
しっかと地を踏み締めているのとまるで変わらない風情でキリキリと弓を引き絞る。
詰める……。
離れの前から、三井には空を切る矢の像が見えていた。打ち消しても打ち消しても、その都度鮮明さを増してイメージは戻ってきた。
呼吸するのも忘れて三井は見入る。
やがて鋭い弦音がその鼓膜を震わせ、一瞬の後には的紙を破るパァンと音高い響き。
詰めたそのことはしっかりと見届けたのだろうに、岩清水の表情は全く涼しいまま動かない。そして残響の消えた頃、ゆっくりと弓を返し、すり足で本座へと戻ってゆく。
そこに、射技を終えたことへの気の緩みなど微塵も見受けられない。入場の時と同様の静かで確かな息遣いであり、しなやかで揺るぎない歩みだった。
本弭(もとはず)が射場の敷居を越える―――即ち、納射の終了するその瞬間まで、ずっと。
カメラの拾った観衆の惜しみない拍手を聞きながら、三井は大きく息を吐き出していた。いつの間にか浮かんだ額の汗を腕で拭う。
その腕が、震えていた。
「…惚れる、だろ?」
かけられた声にハッと顔を上げる。
見れば、ビデオを停止させた嶋田が人の悪い笑みで覗いていた。
けれどその口調は柔らかく、眼差しは温かい。
惚れる―――息もつけなかったこの感覚は、そう呼ぶのが何より相応しいのかもしれない。
それでも、素直に頷くのはどうにも癪で、といって否定することは、嘘をつくことは、どうしてもできない。
「…先輩、彼女いるじゃないですか。そんな、惚れるとか言ってていいんですか」
結局、三井は答えることを避けて目を逸らしながらそんな風に、返した。
嶋田の方はその葛藤をお見通しといった様子で小さく笑い声をたてる。
「そーれはそれ。これはこれ」
けれど、それ以上この後輩を追い詰めることなく、振られた話題にあっけらかんと乗ってみせる。
そのあまりの悪怯れなさに、三井もホッと短い笑顔を洩らしていた。

偶然鉢合わせたあの夜から、土曜日の遅い時間には毎週、弓道場に三井と岩清水の姿が見られるようになっていた。
「ほーらー。重心浮いてるぞ。丹田(たんでん)意識しろって」
道場奥に据えられたベンチに腰を下ろし、ふんぞり返る岩清水。
「…うっさいなー」
事細かに文句をつけてくる男を横目に睨み付けながらも、三井は以前ほど強く出られない自分を自覚していた。
嶋田に見せられた映像の印象は、強烈に過ぎた。
今は引いていないとはいえ、あの、震えのくるほどの射を披露したその人物が目の前にいるのだと思えば、多少の緊張感は消し得ない。
もしもあれを、今目の前で見せられたなら。
時折三井は考える。
もしもこの眼前で、あの卓越した射が披露されれば―――自分は、落ちる。
三井は確信していた。
今更ながら、岩清水を慕って止まない嶋田の気持ちが自分のものとして捉えられる。
他人の射を見るだけで震えがくるなど、初めての経験だった。言葉にさえならない、そんな衝撃を受けた。
岩清水への反発は、今となっては努力して作り上げている感情だ。ともすれば従順な犬のように盲目的に従ってしまいそうになる自分を戒め、毛を逆立てて反抗している。
どうしてそんな必要があるのか―――自分でも理解できないまま。
それでいながら、少し年の離れた男とこうして二人きりで過ごすこの時間を三井は心地よく感じ、離れがたく感じている。
寧ろ、日の高い時間帯に自分以外の人間と談笑する岩清水の姿を見るのが、少し苦痛に感じられた。とはいっても、彼の方から近付いてくれば、相変わらず三井は素直になれずにけんけんと噛み付いてしまうのだが。
矢立から無造作に矢を一手掴み取り、軽く(ゆう)をして射位に進む。
その背中にもう、射抜くような鋭い視線を感じる。だらしなく崩した姿勢ながら眼差しばかりは一分の隙もなく、岩清水は三井に一瞬たりとも気を抜くことを許さない。
ともすれば乱れそうになる呼吸のタイミングを、気力を総動員して捻じ伏せる。本当は、こうして意識してしまうこと自体が既に誉められたことではないのだが。
それでも、これは岩清水と一緒になり始めた当初に口を酸っぱくして教え込まれたことだった。
曰く、無我の境地と何も考えないこととは、似て非なるものなのだ、と。
弓を引く際、「中てよう」などという邪念を持つな、とはしばしば言われることである。突き詰めれば、無心であれということだ。
けれども岩清水に言わせれば、「学生の分際で無心になろうなんざ百年早い」のだと鼻で笑い飛ばす。
「いーんだよ、考えて。何も考えずに引いて、上手くなるわけないだろ。自分の注意点を一つ一つ考えて引いていけばいいんだ」
口では言い返しつつ、その実一つたりとも忘れてなどいない岩清水の言葉の全てを三井は思い返しながら、一本引いた。
シュッと夜気を切り裂いた矢は、そのまま吸い込まれるように的に突き立つ。
三井はそれを見てもすぐには動かず、十分に残心を取ってから、弓を倒し物見を返す。
いつもならここですかさず岩清水のコメントが入るのだが、この時はいくら待っても何の文句も出なかった。
それならばそのまま次の行動に移ればよいものを、いつもと違うということが不安を呼んで、三井は恐る恐る岩清水の方を顧みていた。
目が合うと、岩清水は思わずという風に笑み崩れる。
「…そんなに、俺を気にしなくてもいいんだがな」
自分では無意識だった感情の動きを言い当てられ愕然とする思いだったが、それを押し隠して三井は口を尖らせた。
「常に後ろからグチャグチャ言われれば、気にならないわけがないでしょう」
吐き捨てて、プイと顔を背けた後ろから、さりげなく岩清水が言った。
「よかったぞ、今の」
初め聞き流し、一拍の間を置いてからえっと三井は振り向いた。
その、驚きも露わな表情にまた岩清水が苦笑する。
「間抜けなカオ…」
言って、クックッと笑い出す。
三井は憮然とし、顔を赤くして噛み付いた。
「あんたが、いっつもはけなすしかしないからでしょう。驚きもしますよ
岩清水の口から、曲がりなりにも三井を認める発言が出たのは本気でこれが初めてのことだったのだ。驚くなという方が無茶な話だ。
「そうだったか?」
だが、岩清水はケロリとして全く意識などしてはいない。
……ムカつく。
ムカつく、けれど。
更に腹立たしいことには、三井が腹を立てようとどうしようと、男にはまるで堪えやしないのだと、分かってしまうことが悔しい。
悔し紛れに三井は次々と矢を射放って数だけこなし、結果として射は荒れて、業を煮やした岩清水に大目玉を食らった。

「…三井? なんだお前、まだ帰らないのか?」
土曜日には、毎週午後に部の全体練習が組まれている。終わるのは夕方の4時。
全体練習だけで満足して帰ってゆく者が大体半分、残りの半数はその後自主練をするのが常ではあるが、今はもう夜も更けようかという午後11時だ。さすがにこの時間まで残っている者は三井ただ一人であった。
声をかけられ、ぼやんと座っていた三井が驚いた顔で見上げる。
「先輩…」
「ずっと引いてたのか? お前ホントに弓道バカだなー」
弓具を身に着けたままでの小休止、といった三井のなりに、嶋田はしみじみと嘆息する。
「けどもう、いい加減帰れよ? 日付変わるぞ?」
「え…。あの…」
軽く、口早に次々と言ってくる嶋田に、三井は返す言葉を挟めず口篭もる。
嶋田は、呆れたように目を見張った。
「…なんだ、まだ引くつもりなのか? もう誰もいないじゃん」
「先輩こそ…、どうしたんですか、こんな時間に」
「俺?」
言って嶋田はクルリと目をきらめかす。
「俺は、図書館帰り。この外を通りかかったから覗いたんだよ」
「ああ、そうなんですか…。おつかれさまです」
真面目な顔でペコリと頭を下げられ嶋田は苦笑する。
「サンキュ。ま、俺ももう4年だからなー。ちったぁ先のことも考えんといかんわけよ。…で、お前は?」
「はい?」
唐突に質問を返されキョトンと目を瞬かせる。嶋田はつい笑ってしまった。
「ここで、何やってんの?」
「あ…ああ…。えっと…人を、待ってるんです…」
別段後ろめたいことなど何もないのだが、少し言いにくくて、三井は小さな声で答えた。
「おーいー。神聖なる道場で逢引かよ。勘弁してくれよー」
それを嶋田は誤解して、珍しく照れたような三井にツボを刺激されたのか、腹を抱え、柱に突っ伏して爆笑していた。
「え…」
一瞬遅れ、三井は慌てて反応する。
「ち、違いますっ。そんなんじゃ…。大体、別に約束とか、してるわけじゃないし…」
「なんだなんだ。ボク達まだ清らかな仲なんです、ってか?」
「先輩……」
悪乗りして三井を小突き回す嶋田はオヤジまっしぐらな調子で、諦めに近い心境で三井は深々と溜め息をついた。
「本当に違いますよ…。岩清水さんですよ、俺が待ってるの。残念ですけど、先輩が期待するようなことにはなりようがないです」
「え……」
岩清水の名が出た途端、嶋田は真顔になって動きを止めた。
「岩清水…さん?」
その極端な反応を少し疑問に思いながらも、聞き返されて三井は素直に頷く。
「です」
「なんで?」
が、次のこの質問にはまたも答えに窮して口篭もった。
「え、いや、なんで、と、言われても…」
「岩清水さんが、来んの? 今から?」
「え、え…。多分…。保証は、できないですけど…」
「ふーん…。で、何? お前、見てもらうの?」
これには即答できず一瞬詰まった三井だが、じきに観念してややぎこちなくはあったものの頷いた。
「その、つもりです」
「ふぅん…」
納得したのかしていないのか、ともかくも嶋田は分かった、と言い、そのままどっかと腰を下ろしてしまった。
「せ、先輩?」
予測のつかない行動に、三井は目を白黒させる。嶋田はそれへヒラヒラと手を振った。
「あーあー、お前は気にすんなよ」
「はあ……」
そうは言っても…難しい顔をして考え込む姿を見れば、どうしたって気になるというものである。
けれど、睨むように一点を見詰める嶋田の様にはどこか鬼気迫るものがあり、気軽く話しかけられる雰囲気では到底なかった。
そんな折も折、カラカラと引き戸を引く音が聞こえてくる。岩清水が来たのだろう。
「こんばんは」
「こん…」
「ばんはー、岩清水先輩」
丁度弓を取ろうとした手を止めて戸口を見やり、三井が答えかけた声を遮るように、立っていって嶋田は岩清水を出迎えていた。
「嶋田…?」
驚いたように、岩清水が靴を揃える動きを止める。
「先輩、酷いッスよー。夜弓組(よるきゅうぐみ)、復活したんなら俺も誘って下さいよ。淋しいじゃないですか 俺、泣きますよ?」
嶋田はその脇へと屈み込み、目線を合わせてニッカリと岩清水の顔を覗き込んだ。
しばし岩清水は唖然と呆気に取られていたが、やがて立ち直って小さく笑い、この後輩の肩を軽く小突く。
「夜弓組とか、復活とかって、あのなー。そんなんじゃねえって。ちょっと三井を見てやってるだけだっつの。それも、頼まれもしないのに、勝手にだ」
「えー、立派に夜弓組じゃないですか。岩清水さんに見てもらえるんなら、俺だって参加したいですよぅ」
ねだるように、可愛らしげにちょっと無気味な品を作る嶋田の、今度は頭を軽く叩く。
「馬ー鹿。…まあ、好きにしろって言ってやりたいとこだけどな。お前はそろそろ弓にウツツ抜かしてる時期じゃないはずだろ?」
嶋田は、構われることが嬉しくてならない様子で、多少乱暴に扱われても全くめげることなく、ネジの緩んだ締まりのない顔でえへへと笑う。
岩清水が、取り残されて呆然と突っ立つ三井に気付いてヒョイと肩を竦めてみせた。仕方ないヤツ、というジェスチャー。
「なんかこんなこと言ってるが…、お前構わないか、コイツがいても?」
僅かなタイムラグを置いて、振られた話が自分宛てのものだと気付き、三井は慌ててブンブンと勢いよく首を縦に振った。嫌だなんて主将を差し置くことなど、まさかできようはずもない。
「俺は、別に…。…ところで、何すか、夜弓組って?」
聞き慣れない単語に三井が首を傾げると、あー…と苦笑いして言葉を濁す。脇から嶋田が遠慮もなしにくちばしを突っ込んだ。
「夜弓組ってのは、岩清水さんの弓道講習会の別称。遅い時間の熱心な部員対象に開かれてたからそう呼ばれてたんだよ。組員は俺以下数名」
「組員って…嶋田、お前な…。恥ずかしいから止めろってば、その呼び方は」
弱り切った様子で岩清水は天を仰ぐ。その目許が微かに赤い。
「いーじゃないですか。嬉しいんですよ、俺は」
「過去を懐かしがるのは年を取った証拠だぞ」
「うわ、ひどっ。俺が年食ってるなら、岩清水さんなんかもっとじゃないですか
「あーそうさ。俺は年寄りさ。悪いか」
「開き直らないで下さいよ〜〜」
かけあいのように両者の間のみで交わされる会話は楽しげで、他者の介入を柔らかく拒んでいる。
疎外感は、否めなかった。
どうしたものかと指をくわえる思いで眺めていたが、ふっとそんな自分が馬鹿馬鹿しくなり、三井はクルッと二人に背を向けた。淋しいと感じている心に無理矢理目を塞ぎ蓋をして。
―――その後ろ姿へと送られた、嶋田の視線に気付くこともなく。

三井の射を、正確に同じことを繰り返す精密機械と称するならば、嶋田のそれはまさに豪放磊落、ひどく自由な弓だった。
ふんふんと、今にも歌い出しさえしそうな表情で、余裕綽々に引き分ける。一見すれば、弓力が身に合わず軽過ぎるのではないかと思うくらいだ。
実際には嶋田は20kg近いものを引いており、それを軽いという者は少なくとも三井の周りには存在しないのであるが。
岩清水の前、嶋田もさすがに真剣な面差しをして、一本引いた。
ヒュオッと風を切った矢は、トンッとやや12時寄りに的を射抜く。
弓を倒し、物見(ものみ)を返すなり嶋田はクッと岩清水の方に顔向けた。
「…いいんじゃないのか?」
岩清水は、組んでいた腕を解きながらその視線に答えた。
こだわりのないあっさりとした口調が、嶋田にはずいぶんと不服なようだ。
「それだけですかあ?」
忽ちに眉尻を下げ、臍を曲げる。
「あのな…」
岩清水は、頭痛をこらえるように額を押さえ、溜め息をつく。
「いいって言ってんのに、何が不満だ、お前は」
「不満に決まってるじゃないですか。ただいいってだけなら三井にだって言えますよ
突如として引き合いに出された三井は、危うくむせ返りそうになった。何を飲んでいる最中というわけでもないのに空気にだ。
「ちょっ、せんぱ…。どういう意味ですか、それ……」
ん? と嶋田は彼を振り返り、何の躊躇もなく言い切った。
「お前が、人の射を見ようとしないヤツだってことだ」
「…………」
「あー…。それで思い出したわ。嶋田、お前もうちょっとコイツをしつけろよ。今はいいかもしらんが、このままいくとその内同級とかからはみられることになりかねんぞ」
挙句、岩清水までが当人を目の前にして批評…いや、酷評を繰り広げ始める。
「俺もちょっと言ってるんだがな。俺から言っても耳を貸しやしねえんだよ、こいつ。お前主将権限でいっぺんガツンと言っとけ」
「無駄ですよ、そんなん。言って聞くような殊勝なヤツなら俺が言おうと岩清水さんが言おうと同じっしょ。先輩言ってダメなら俺が言ってもダメですよ」
二人して、その場にいる三井のことなど眼中にもない様子でシレッと散々な言われようだが、心当たりがなくもないだけに三井としてもぐうの音も出やしない。
「先輩…。そんな風に思われてたんですか、俺のこと…」
それでも、これまではそんなこと、おくびにも出してはこなかった人だけに少し恨みがましい気分にもなる。
別に、思うだけならどう思われていようと三井も屁とも思いはしないのだが、それを本人より前に人に話されてしまうのでは立つ瀬がないというものだ。
ははっと岩清水が笑い出す。
「三井、お前も騙された口だな。嶋田はぼけっとして見えるが、それほど甘いヤツじゃないぜ。見てないようでいて、見るべきところはしっかり見てる。……余計なことも含めてな」
最後は、少し皮肉げに締め括った岩清水に対し、嶋田は苦笑したのみで何の反論もしなかった。全て言う通りと認めているということなのか。
三井は、これまでただ先達として通り一遍の敬意しか払ってこなかった嶋田という人間が、急に自分の前に大きな壁となって立ちはだかるように感じていた。
「…まっ、俺のことはいいじゃないですか。それより先輩、三井、これで実は憧れの射手がいたりするんですよ」
「へえ…?」
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる嶋田に岩清水が興味の色を見せる。
「多分、その人の射なら見たいって言いますよ、コイツでも」
言って嶋田は「な?」と三井を振り返る。
「え…」
言われた三井は、実は何のことか分からずにいて、要領を得ない顔で一度二度と瞬きをした。がしかし、それさえもを面白がるような嶋田の笑みを見返す内、唐突に真相に思い当たって愕然とし、次いで焦りのあまりにうっすらと赤面するのを自覚した。
「んなっ…先輩、俺は、別に…っ」
嶋田の言うのは、他でもない岩清水を指すのに相違ない。かなり思わせ振りな言い回しだが、本人を目の前にして、いかにも嶋田の言い出しそうなことだと三井は思う。
確かに、岩清水の射を初めて目にしたときには、我を忘れて見入った。それは事実だ。
けれどそれは、初めてだったからであって。決して、未だに引きずっているとか、そういう、ことは……。
ない、と、自分自身に向かってさえ明確に言い切ることのできないことを自覚して、三井はかなり動揺していた。
一方、岩清水は苦笑を浮かべて割って入る。
「誰なんだよ、一体? 勿体ぶってないでさっさと喋れ。俺の知ってるヤツか?」
「そりゃーもう」
嶋田はクルリと見返りニッコリと笑った。満面といってよい笑みだが、何かを企んでいそうで、却って無気味な印象をもたらす代物。
思わず笑みをつられつつ、何かを感じ、岩清水は一歩を退こうとした。けれども、遅い。
岩清水の目の前に、嶋田の弓が差し出されていた。
「…ってわけで、演武お願いします、岩清水さん」
口調は明るく軽いノリだが、目は笑っていなかった。逸らすことを許さない、強い眼差し。
わざわざ持ち替え、握りを空けて自らの弓を差し出す嶋田に見ていた三井は大きく目を見開いた。
弓の扱いに関しては嶋田はかなり厳格だ。三井の知る限り、他人に握りを明け渡すような真似はこれまで一切してこなかった。
他人の弓の握りを持つという行為は非礼に当たる。特に、目上の人の弓を扱う際には相当注意せねばならない。
岩清水であれば嶋田にとっての目上であるから、大騒ぎするようなことではないのかもしれないが…。
岩清水は、受け取るのだろうか。
固唾を呑んで見守る三井の前で、岩清水は困惑げに笑みを消して軽く眉をひそめた。手は出さない。
「嶋田…。俺は…」
「引けないっていう言葉は聞きたくないです。引けなくても弓を持つことくらいはできるでしょう? あなたが、弓を手放してもここへ来るのは何故ですか。止めたと言いながら、ここを離れられないのは何故ですか」
「それは…」
返しにくそうに岩清水は一度言い淀む。だが、決して逃がしてくれない嶋田の凝視に根負けし、渋々答えを口にする。
「結局、俺は弓道が好きだから。自分じゃ引かなくても、やっぱり、好きだから…」
「でしょう?」
求めた回答を引き出して、嶋田はふっと目許を和ませた。
「どうぞ。取って下さい。あなたの弓です。俺も、可愛がらせてもらってますけどね。やっぱり岩清水さんには及びませんよ」
そこまで言われ、嶋田の顔と弓とを交互に見比べて、岩清水はためらいがちに手を伸ばした。
しっかと掴み、思わずのようにぶるりと身を震わせる岩清水。嶋田は満足そうに微笑んだ。
「…さあ、見せてやって下さいよ。岩清水さんの弓道を。的に詰めるばっかりが弓じゃないんだって、この分からずや坊やにね」
岩清水は、黙って受け取った弓の末弭(うらはず)から本弭(もとはず)まで目を走らせて、微かに笑む。
「…よく手入れしてあるな」
嶋田は、呆れたように大袈裟に溜め息を吐いてみせた。
「当たり前じゃないですか。三度のメシを欠かしたって、岩清水さんから預かった弓の手入れを怠ったことなんてありませんよ」
その答えを得、岩清水は何かが吹っ切れたように表情を緩ませる。
「…ったく、敵わないな、お前には…。どうせ、三度のメシだって欠かしたことはないんだろ?」
少し皮肉を織り交ぜた軽口が出てくるくらいには気分が解れたようだった。
その後、嶋田が何か言うのを待たず、続けて彼は尋ねた。
「で? 何をして欲しいって?」
日置(へき)の体配を」
気を取り直すといきなり、普段の調子に戻った岩清水の為人に嶋田は軽く肩を竦める。だがそれをからかうようなことはせず、素直に望みを口にした。

「…よく、見とけよ、三井。あの人にあって自分にないものが何なのか、見極めてみろ」
嶋田は低く、だが揺るぎない確かな口調で命じてくる。目だけは、敷居の縁に立った岩清水から一瞬たりとも離そうとしないまま。
三井は返事をしなかった。いや…できなかった、という方が正確か。
岩清水の邪魔にならないよう、道場の隅に腰を下ろした二人の他には誰もいない、空間。静かだ。
岩清水が弓を構えて立った、その瞬間から場の空気までもが完全に入れ変わってしまったかのようだった。
弓道衣さえまとわない、手にした弓具も弓矢のみという簡素な出で立ちながら、弓道場という特殊な世界にあって微塵の違和感も抱かせない。居ながらにしてこの場を支配しているのは、紛れもなくこの男だった。
やがて、岩清水がスッと一歩を踏み出して、まさに目の前で演武が始まる。
ただ足を出す、その第一歩目からして、既に余人との差をまざまざと三井は見せつけられる思いがした。
弓道着ではない普段着、即ち足元は足袋ではない。そこからしても随分と感覚は違うだろうに、感じさせない。まるで平素と異ならぬ風を以って淡々と淀まない歩みを進める。急かずたゆまず、常に一定を保つ歩調。
定めの坐に入り、スゥッと滑らかな動きで半足を引いて腰を下ろす。神棚に向かって一瞬意を注ぎ、三つ指ついて深く一礼。呼吸に合わせてゆったりと面を上げ、置いた弓と矢を再び取り上げる。無論のこと均衡を崩すということもなく立ち上がると、岩清水はまた静々と歩き始めた。
「ほんと綺麗だな…」
ボソリと嶋田が聞かせるともなく呟いた言葉には、三井も全く共感した。
姿形の話ではない。動きの、一つ一つが。あらゆる無駄を殺ぎ落とし、かつ、欠けているものもあり得ないのだ。
必要なものが必要なだけ存在するとは、これほどまでに美しいことなのか……。
見入って、いたからだろうか。それに反応したのは、三井よりも、そして岩清水本人よりも嶋田の方が早かった。
前触れもなく。ぴりぴり、とも、ちりちり、ともつかない音がし始めていた。
えっと思って三井がキョロリと見回した頃には、既に出元を突きとめて、嶋田はザッと床を蹴っている。
訳が分からないながら三井も続けて腰を浮かせた時、ちちちち、と鳴っていた音が決定的な一撃を轟かせた。
バシイィィッと。
切れたのだ。弦が。
「岩清水さんっ
叫んで嶋田が一目散に駆け寄っていく。
切れたのは、弓立てに立て掛けておいた、三井の弓の弦。壁面に沿って配置された弓立ての上部には、過去獲得した賞状が額に入れて飾られている。何枚も。
張った弦の切れた反動で弓は跳ね上がり、当然のごとくそれらの額を直撃した。
そして、ガシャン、シャリーン、ガガガカッと、不快な音をいくつもさせて連鎖反応的に降り注いでくる物体の下には、岩清水の姿がある。
竦んだように立ち尽くしていた。
咄嗟に、弓を傷めることがないようにとでもいうのか、体でそちらを庇うような行動を見せた彼を、三井は怒鳴りつけたい気がした。
それは違うだろう まず確保すべきは自分の身の安全だろうが!?
そんな彼を、嶋田が降り注ぐガラスの雨の中から連れ出す。
とりあえず数歩を行ったところで足を止め、抱き抱えるようにしていた岩清水とは別に嶋田は顔だけ惨状を振り返った。つられてか、岩清水もそちらを顧みる。
一度、目を丸くしてから、岩清水はふっと苦笑を洩らした。
「…ひでぇことになったな」
言いながら嶋田の腕を叩いて自由を取り戻し、落下の収まった現場へと近寄った。まるで、自らの身に降りかかった危難を笑い飛ばしてしまうかのような、物言い。
対して、嶋田の表情は厳しかった。
「三井
慌てて駆けつけてきた後輩を、頭ごなしに叱り付ける。
「すみません!!
三井もまた、一切の言い訳をせずに潔く頭を下げた。
弓力(きゅうりき)がかかってもいない弦が切れるなど、手入れ不足の他の何者でもない。弁解の余地などなかった。
しかし、異論を唱えたのは最も被害を被ったはずの当の岩清水だ。
「おい、嶋田…。そう怒るな。さっきチラッと見たが、切れそうな弦ってわけでもなかったぜ。事故だよ、ただの」
「岩清水さん…」
困ったように眉尻を下げた嶋田を余所に、岩清水は直接三井にも声をかけた。
「お前も、気にすんなよ、三井。きちんとしてても、弦はたまに切れることがあるんだ」
柔らかい笑みで労られ、三井は軽く唇を噛んだ。
「怪我…」
言葉に不自由するかのように片言で呟き、三井は左手を伸ばした。岩清水の右のこめかみでは、多分、砕けたガラスの破片で作った擦り傷に血が滲んでいた。
「え?」
触れられて岩清水は自分でもそこに手をやり、指先についてきた血に顔をしかめた。
「ああ…ちょっと切ってるみたいだな。痛くないけど」
何でもない、といった様子でごく軽く口にする岩清水に、何故か三井は猛烈に腹を立たせた。
「アンタ、馬鹿かよ…っ いっくら弓が大事だからって、自分庇う方が先だろうが。そんな位で済んだからよかったようなものの…、角で頭でも打ってたらどうすんだよ!!
「三井っ!!
瞬間、嶋田の放った怒声は先の叱咤の比ではないものだった。
その怒りの激しさに恐懼したというよりは、訳が分からずに三井は呆然と固まった。
奇妙な沈黙を破ったのは、くくっと笑い始める岩清水の低い声だ。
「…何、ムキになってんだか…」
くっくっとのどを鳴らしながら、皮肉げに歪めた笑みで視線を流す。
「お前が怒ることじゃないだろうが、嶋田。怒ったって、こいつは何も知らねぇよ…なあ、三井?」
知らないと、言ったその口で話を振られても何とも答えようがないというものだ。三井は未だに事情が飲み込めず、困惑するより他にない。
そんな表情を検分してふっともう一度鼻先で笑い、岩清水はスーッと右腕を持ち上げた。肩ほどの高さまで持ってきたところで、止める。
そのまま、意味ありげな視線を投げかけてくるのへ、三井は無言で眉をひそめた。
「ほら、な。全っ然意味不明ってツラしてやがる」
それを見て岩清水は、何が楽しいのか含んだ笑いを洩らしている。そうして、ようやっとタネが明かされた。
「使えないんだよ、右。肩、壊してるから、俺は」
初め、言葉は右から左に通り抜けかけ、次いでその意味を理解してハッと目を見張った。
驚愕する三井を余所に、岩清水はごく淡々と説明を続ける。
「これ以上上に上がらない。だから、特にさっきみたいな咄嗟の時に体庇うなんて芸当は…無理な話だな」
「弓、も…それで……」
止めた…、否、止めざるを得なかったのか、と―――三井自身も口にしてしまってから気付いたあまりに無神経な問いに、またしても嶋田が怒気を露わにする。
背中で制し、岩清水は淡い笑みを口許に刻んだ。
「ああ。そうだ」
既に過ぎ去ってしまった過去のことと、きちんと納得しているからこそ浮かぶ、澄んだ笑み。
「…聞きたいことは、それで終わりか?」
むしろ彼の方こそが気遣われるべき立場なのであろうに、逆に包み込むような温もりを与えられる感覚に、強く拳を握り締める。
敵わない―――そう、思った。
「三井? 何もないか?」
もう一度確認する岩清水に、三井はむっつりと口を噤んだままで頷いた。
「そうか。…じゃあ、これ、早いとこ片付けようぜ」
言いながら、さすがはOB、勝手知ったるでさっさと掃除用具を取り出してくる。
「い、岩清水さんっ。いいですよ、そんなん俺らでやりますよっ」
「そーか? じゃ任せた」
慌てて後ろから追った嶋田が手を伸ばすと、岩清水はこだわるでもなくあっさりとその手に道具を押し付けた。
押し問答とは言わないまでも、多少の悶着を予期していた嶋田は拍子抜けして刹那の間自失し、ややして小さく吹き出す。
「相変わらずっすねえ、先輩。後輩に仕事をさせるコツは、自分から仕事をする、フリをする、でしたっけ?」
軽く肩を竦める仕種。
「口であーしろこーしろ言うよりストレスがかからないだろ。…その代わり、気の利かないヤツが相手だとまるっきり無効だけどな」
チラッと視線を送られて、三井はギクリとのどに息を詰まらせる。
遠回し…というか、かなりストレートに気の利かないヤツだと言われ、そして確かにでくの棒のように突っ立っていた今の有様では言われても仕方がなく、ぐうの音も出ない。
「…やります」
それでも、遅れ馳せながら申し出て、嶋田の手から示唆された通りに箒とちり取りを取り上げる。
岩清水と嶋田は顔を見合わせて笑ったが、ガラスを捨てるために箱を準備したり、細かな欠片を残さないためにガムテープを持ち出してきたりと、無器用な後輩をそれなりに手伝ってやった。

そんなことのあった後も、岩清水の態度に特に変化は見られなかった。弓を引く三井のところへフラリと姿を見せては、言いたいことを言って去ってゆく。
だからおそらく、変わったのは受け取る三井の方の心境なのだ。
三井は戸惑いを感じていた。
弓を止めたという岩清水。訊かずにいたその理由ができないからだとは思っていなかっただけに、今更知らされて三井はどう対処すればよいのか分からなかった。いや、岩清水が何ら変わりないのだから、こちらもそれに準ずればいいのだと理解してはいるのだが。
つい、考えてしまう。生き甲斐といえば言い過ぎだが、かなり弓にのめり込んでいる自覚のある今の状況で、突然弓を引けなくなったら、自分ならどうするだろうか、と…。
岩清水は、こと弓道にかけては打ち込むこと自分以上だと三井は感じる。愛して止まないとさえ言えるかもしれない。自分なら、引きもしないのにこうも再々顔を出すことなどできはしない。というか、したくない。
空気が好きなのだと彼は言う。直径30センチあまりの小さな的に、誰もが一心に集中する独特の雰囲気。また、時代を経た建物の深い味わい。そういったものに身を浸し、確かに岩清水はとてもいい表情をする。
その彼が、自分に対して特別なこだわりを見せるのが、三井には正直重かった。
自分の何がそれほど岩清水の気を惹くのか、彼は自分に何を望んでいるのか、自分はどうすればいいのか、またどうしたいのか……。何も、分からない。
自分でも、あまりに穿ち過ぎているかもしれないと思いながらも、三井は考えずにはいられない。
その上、追い討ちをかけてきたのが嶋田だ。
「三井。あの人を、傷つけるなよ」
深く深く、釘を刺すように嶋田は言った。
嶋田にしてみれば別段追い討ちだなどというつもりはなかっただろうが、三井にしてみれば同じことだ。
「何で先輩にそんなことを言われなくちゃならないんですか」
体育会系の上下関係が身に染み付いている三井だが、こうまで大上段に振りかぶられると、恨み言の一つくらいは口にしたくもなるというもの。
軽く唇を尖らせて拗ねると、嶋田は、見たこともないような屈折した光を瞳の中に揺らめかせた。口許は微かに歪む。
「かつてあの人を、どん底にまで打ちのめしたのが、俺だからだ」
訳が、分からない。
分からないなりに、嶋田の言葉の過激さに気圧されて、三井はのどの奥まで息を吸い込んだ。
割って入ることの遠慮されるような特別な親しさを感じさせる、岩清水と嶋田の仲。その彼らの間に、過去何があったというのか―――
疑問は持っても口に出すこともできないでいる内に、やがて嶋田は表情を静めて、言葉を継いだ。
「岩清水さんがお前を気に入っているから、俺には何も言えない。けど…、筋が違うのは百も承知で言っておく。あの人を傷つけたら、俺はお前を許さない」
関係ない、と、普段の三井なら間違いなく突っ撥ねていたことだろう。
だが、この時の嶋田はまるで心の奥底にまで分け入り踏み込んでくるかのような眼差しをしていて、その真摯さに呑まれて、結局三井は何の応答も返せずじまいだった。
このやり取りのあったのが、先月の終わりのこと。
以来三井は岩清水と接するのが更に重荷になって、この頃では苦痛さえ覚えるようになっていた。
岩清水のせいではない。それは三井も自分で理解しているから、誰にも何も訴えることもできない。
分かっているのだ。岩清水は何も悪くなどない。ただ……。
先日、気重に耐え兼ねてつい、深夜の自主練をすっぽかしてしまった。
すっぽかすという表現は、実は当て嵌まらないのだが。約束などをしているわけではないのだから。済まなく思う必要もありはしない。
だというのに、この、罪悪感…。
いつの間にか週末の岩清水との時間は、習慣として自分の身についていたのだと、改めて思い知らされる。
一度禁を犯してしまうとその失地を取り返すのは容易でなく、気まずさを引きずったまま岩清水を避け続けてもう三週間目にもなろうとしていた。
嶋田から、使うかもしれないと宣告された試合を月末に控え、一本でも多く引きたいこの時期だ。深夜帯に時間が取れないとなれば、練習量を落とさないためには必然的に昼の間に数を引くことが必要になってくる。
何も考えず没頭したがる逃げの気持ちともあいまって、ほとんど機械的に三井は体を動かしていた。
どこかしら鬼気迫る様相を呈する姿に恐れを為してか、そんな三井に声をかけてくる者は誰もなく。ひたすらに引き続ける。
弓は、れっきとした武器である。致命的な事故の起こることもあり得ると自覚し、扱いには慎重を期さねばならない。
それを理解しているから、心ここに在らずの三井をチラチラと心配そうに様子を伺うくせ、誰も注意しようとはしない部員達に内心で舌を打ちながら、不承不承嶋田は止めに入った。関わりたくない気持ちは嶋田としても強かったが、背に腹は変えられない。主将として、監督責任は軽いものではないのだ。
「おい三井。もう止めとけ。今のお前じゃあ、何本引いても同じだ。自分でも分かるだろうが」
「あ…先輩…」
たった今、夢から覚めたかのようなシャンとしない表情。
自覚くらいはあるのか、一度心許なく目を上げたものの、すぐに小さくうな垂れる。
「…すみません」
「分かってるんなら今日は上がれ。腑抜けた引き方をして、怪我でもされたら俺が迷惑する」
嶋田が高慢に言い切ると、いつもの覇気もなく、三井はグッと唇を噛み締めたのみで頭を下げ、大人しく引き下がった。
「大丈夫かよ、あれ…? 嶋田、お前次であいつを使うつもりなんだろ? 確かに中りは出てるが、あのままじゃ立が乱れるぜ」
悄然として小さく見える後ろ姿を見送りながら声をかけてきた副将を務める男に、嶋田は黙って肩を竦めてみせる。
今のままでは使い物にならないことは、嶋田とて十分承知している。
しかし、だからといって、嶋田にはどうしてやることもできない。下手に事情が分かってしまっているからそれは尚更だった。
「…まあ、もう少し様子を見るさ。まだ時間はあるしな」
その場を凌ぐとりあえずの言葉を吐いた嶋田に、男は納得した風ではなかったが、一応は頷きを返してきた。

大学が休みの土曜だというのに嶋田に早々に道場を追い出されてしまったため、夜になっても三井は引き足りない消化不良の思いを燻らせていた。いつもいつも引いているから、たまにこうして引かなかったりすると体がなまる気がするのだ。
嶋田の言い分には理があったから恨むことはできないが、結局我慢できずに三井はもう一度道場へと赴いた。
試合が近付いてきたせいか、この頃では三井以外にも夜中に引く者をしばしば見かける。しかし、さすがにもう未明といってもよい遅い時間なので道場は明かりが落ち、シンと静まり返っていた。
岩清水の姿もどうやらないらしいことにほうっと安堵の息をつき、三井はこそこそと道場に忍び込んだ。
弓具を揃え、とりあえず引く。とにかく引く。
何も考えないでいたかった。
そんな調子でいい弓など引ける由もなかったが、射としては酷くても中りは出る。これで中らなければもう少し悩むこともあるのだろうが、なまじ中ってしまうだけに、救いがない。
体が覚えた中て射をただなぞるだけで、弓を引きながら頭は別のことを考えてしまう。
今また、射放った矢は過たずパシンと的を射抜いた。
「しっ
「っ…!?
予想もしない他人の野声(やごえ)に度肝を抜かれ、三井は心臓を竦み上がらせる。
見開き振り返った目に映ったのは、パンパンと手を打ちながらゆっくりと壁から身を起こす、岩清水その人の、姿だった。
「二十射十七中、か…。さすがだな」
拍手をし、言葉は賞賛していても、口調は褒める時のそれではない。
「岩清水、さん…。な、んで…」
ぎこちなく名を呼び、おずおずと窺うと男はふっと唇を捻り上げた。
「なんでかって、訊きたいのはこっちの方だぜ。ちょっと見ない間に、随分な射をするようになってるじゃないか。どういうことだ?」
咎めるように見詰めてくる強い眼差しがいたたまれず、三井は視線を避けて俯いた。
「…すみません」
「謝って欲しいわけじゃない。理由を訊いてるんだ」
「…すみません」
しばらく待ってみてもそれきり唇を引き結んで黙りこくり、顔を上げようともしない三井に溜め息をつき、長期戦の構えなのか、岩清水はもう一度背中を壁に寄り掛からせた。
「お前、最近俺を避けてたよな…。何でだ? 俺は、避けられるようなことを何かしたか?」
「…すみません……」
何を言っても訊いても返ってくるのは意味の不明な謝罪ばかりで、岩清水は顔をしかめて不快感を表した。
「だから、謝って欲しいんじゃねえっての。俺は、理由を訊いてんだ」
ぼやくように一人言ちる。
そこで初めて三井は少しだけ顔を上げた。
「説明できるような理由がないから、謝っているんです」
言葉少なに告げてくるのは、弁解というには強弁の気配が濃い。
「なんだそりゃ」
進展のない言い合いに先に飽きたのは岩清水の方だった。
「…まっ、言いたくないのなら、別にいいけどな」
ふぅと息を吐き出して軽く肩を竦める。
それを話の終わりだと受け取った三井はペコンと頭を下げたが、岩清水は向けられかけた背中を呼び止めた。
「嶋田が、お前が無茶な引き方をしてると言ってきた」
あっさりとそんなことを口にする岩清水に対し、唐突に強烈な感情が込み上げる。自分でも説明のつかない感情が。
「…筒抜けって、ワケですか。一体、どーゆー関係なんです、あんた等」
皮肉な思いに片頬を歪めてみせた三井。岩清水はまるで取り合わなかった。
「他のヤツからも言われてるだろうし、自分でも分かってるんだろうが。今のお前、滅茶苦茶だぞ」
三井のペースに巻き込まれることなく、淡々と語る。
三井は唇を噛み締めた。
「放っておいて下さい。関係ないでしょう、あなたには」
「今みたいなのを続けてたら、その内体を壊す。心配してんだよ…。俺も、嶋田も」
それを聞いた瞬間に、燻り続けていた苛立ちの正体が見えた、と思う。感情が、爆発した。
「そんなことアンタに関係ないだろうっ 俺は、引けないあんたの代わりじゃない!!
叫び終えるや、岩清水の血相が変わった。
これまで何を言われても大して心動かされる素振りも見せなかった男が、顔色を変えたのだ。
三井は言葉の行き過ぎに気付いて動揺した。けれど、何と言ってフォローすればよいのか分からない。
と同時に、これは本心であるとの思いも決して薄くはなく。
ただ、手を握り締め、固唾を呑んで見守る三井の前で、岩清水はポツリ、と呟いた。
「…悪かった」
「……」
先に、そう言われてしまえば三井にはますます返す言葉がない。
むっつりと唇を閉ざす三井に困ったような疲れたような微笑を見せ、そのままゆらりと壁から離れた。
「…帰るわ。邪魔、したな」
その姿は、いつもの一本芯の通ったキリリとしたものではなく、どことなく寄る辺ないやるせなさを感じさせるようだった。
それは、紛れもなく三井の言葉が招いた影響。
それと、分かっていても三井には、為す術なく見送ることしかできなかった。

両者の間に漂う空気の微妙な変化を目敏く真っ先に勘付いたのは、やはりというべきか、嶋田だった。しばらくじっと様子を見ていたかと思うと、ちょっと、と顎をしゃくって彼は三井を呼び出した。
遠からず何か言われるだろうことは予測の内だったから三井に驚きはなかったが、ただ溜め息ばかりが零れ落ちる。背中に、岩清水の視線を感じた気がして、余計に気を滅入らせた。
道場を少し離れた自販機の前。嶋田は2本のペットボトルを買い求め、スポーツドリンクを放って寄越す。
「どうも…」
何も言わないということは奢りなのだろう、とりあえず三井はペコリと頭を下げて礼を言う。
軽い頷きで応えながら、買ってはみたものの嶋田はそれに口をつけようとはしなかった。
「…何すか」
そうなると三井としても自分だけのどを潤すというのもやりにくく、手持ち無沙汰に手の中で冷えたボトルを弄んだ。
「お前…岩清水さんと何かあっただろう?」
そして嶋田は単刀直入に切り込んできた。
訊かれることは分かっていたのに三井は一瞬口篭もり、それから投げ出すように返事した。
「…別に、なんもないですよ」
そこで止めておけばよかったのだが、どうにも気が立っていて余計なことを言わずにはいられない。
「仮に何かあったとしても、それを先輩に言わなくちゃならない義理はないと思うんですけど」
岩清水は嶋田の名を出し、嶋田は岩清水を気にかける。その、さも特別なのだといわんがばかりの扱いが、三井には癇に障って仕方なかった。蚊帳の外なら外で、完全に締め出してくれればよいものを、それもせずに岩清水はしきりとちょっかいをかけてくるのだからたまらない。
嶋田は、三井のそんな反発を完全に無視した。
「俺は、言ったよな、三井。あの人を傷つけたら、俺はお前を許さないって」
物静かな中に秘められた底知れぬ気迫に圧され、三井は訳もなくゴクリと唾を飲み下す。
「それは聞きました、けど…」
「それでもお前はそう言うのか?」
嶋田の言葉は、決して激しくも厳しくもなく、ただひたすらに静かだ。
静かで…、だからこそ、重い。軽くない。
三井はそう思う。
「なんで…ですか……。たかが先輩一人でしょう。そんなにこだわるのって、ちょっとおかしいんじゃないですか…」
糾弾というにはいかにも弱々しい口調で詰ると、嶋田はふっと遠く眼差しを馳せた。
「俺には、義務があるんだよ。あの人の幸せを見届ける、義務がさ。それまで、俺は恋愛をしない。そう、決めたんだ……」
「恋愛をしないって」
三井にしてみれば不可解なセリフに、彼は僅かに眉をひそめた。なぜといって、嶋田には現在進行形で彼女がいる。そのことを三井はもちろん知っていた。
不審な心境を読んだように、嶋田は艶やかに瞳を揺らめかせた。
「恋愛感情なんざなくたって女と付き合うことはできるさ。三井、お前意外と良識派なのな」
からかうように言われて、今度はあからさまに三井は顔をしかめた。
良識派と言われるのも、それが意外だと言われることも、心外だった。
「先輩の方にモラルがなさすぎなんです。あんま勝手なことばっか言ってたら、チクりますよ、彼女に」
嶋田は軽く鼻先であしらい笑う。
「好きにしな。痛くも痒くもねぇから」
「…………」
絶句、だ。
彼女持ちと知ってなお嶋田を祭り上げる女子どもに聞かせてやりたいようなオコトバである。自ら望んで女性陣を敵に回すようなそんな恐ろしいマネ、頼まれても実行はしないが…。
「それならなんで付き合ってんですか…」
ほとんど脱力しながら惰性で三井は問い詰める。
どうでもいい存在でしかないのなら、早く終わりにしてやるのがせめてもの誠意というものではないのか?
「決まってんだろ、そんなの。大人の事情ってヤツだよ、オトナの」
相変わらず、三井の心情は正確に読み取っているようだが、生憎とその意に沿ってやるつもりはこれっぽっちもないようで、そればかりか狙ったように神経を逆撫でしてくる嶋田だ。
「だったら、あの人は何なんですか、あなたにとって。その大人の関係の人より大切だとでも言う気ですか?」
ほとんど投げやりに言い放った三井の質問。
それなのに嶋田は、これまでよりも余程真剣に回答を考え込んだ。
「大切…っていうのとは、少し違う。ただ、絶対の…唯一にして無二、そんな存在なんだ」
またしても三井は言葉を失った。
なんなのだ、それは。
……違う。仮にも恋人と名の付く人間を差し置いた他の存在を絶対に位置付けるなど、断じて正しい行為ではない。
少なくとも、三井の価値観に照らしては。
だというのに、それをこうも平然と言ってのける嶋田というこの男。
三井は、ゆるゆると力なく首を振った。
「何なんですか、それって…。ワケ分かんないですよ」
「…ところで、三井」
嶋田は応えないまま、ふと微笑みを浮かべる。少し、毒のある、それでいて、華のある。
「訊いてんのは俺の方なんだがな、さっきから?」
きっちりと話を引き戻す様にどうでも答えなければ話が済みそうもないと嫌でも悟り、深々と溜め息を吐き出して三井は白旗を掲げた。
「別に、大したことじゃないですよ。ほんと売り言葉に買い言葉みたいなもんで…」
「御託はいいからとっとと話せ」
それでも、うだうだと埒もないことを言い連ねる三井に、嶋田は横柄な仕種で顎をしゃくる。さすがにそれ以上引き伸ばすことはできなくて、三井は無意識に唇を尖らせた。
「…俺は、代わりじゃないって…言ったんですよ。引けない、あの人の」
どこかに罪悪感があるせいなのか、声はぼそぼそと歯切れ悪い。
対して聞いた嶋田ははっきりと目を見開いた。
「お前…。それ、言ったのか……」
「言いましたけど」
瞬間キツく目を瞑り、嶋田は呻くように声を絞り出した。
「バカヤロウ……」
固く握り締められた手は、震えさえ帯びていて。
激情に、気付けなかったわけでは無論ないが、訳も分からず詰られて三井が納得できるはずもなく。
「…なんですか、それ。俺に何も言おうとしないのは先輩の…あなた達の方じゃないですか。それで一体、俺にどうしろと?」
最初はそれでも抑えたが、言うほどに堰を切るように声は高まる。
「何も知らせないままで、結果だけ求めるって…あんまり勝手なんじゃないですか!?
「…俺が、言ったんだよ」
やたら気を昂ぶらせているところへ、不意とポツリ告げられて、三井は毒気を抜かれた。
「え?」
「代わりになるって。岩清水さんの弓を継いでみせるって、俺が、そう言ったんだよ、あの人に…」
一言一言を、噛み締めるようにゆっくりと呟く。
訳も分からないくせ、三井は吐息を飲み込んだ。
見張った目で見詰める三井の視線の先、嶋田は苦しげに目を眇める。かつての記憶を辿り、思い返してでもいるのか。
「それが……俺の、罪だ。あの人をめちゃくちゃに傷つけた。俺の、許されない罪なんだよ…」
傷ついているのは、嶋田自身の方ではないのかと…、三井は思う。そのくらい、息の詰まりそうなほど、嶋田は酷い顔をしていた。
「…どういう、ことですか」
一度、ひりつくのどで無理矢理唾を飲み下し、三井は訊いた。
ここまで聞けば、何が何でも最後まで説明してもらわないわけにはいかなかった。それが、誰の救いとなるかさえ判然とはしなくても。

「岩清水さんの肩、さ…。あれ、弓で壊したんだよ、あの人」
嶋田は、そんな台詞で重い口を切った。そして、嘆くように吐息を零す。
「引き過ぎ、でな……」
「っ
ハッとして、三井は音もなく深く息を吸い込んだ。
弓の引き過ぎで、肩を壊した―――
それでは…、彼は一体どんな思いで無茶をする自分を眺めていたというのだろう。
岩清水の気も知らず、いとも容易く拒絶を言い放った自分を思い、三井は心臓を冷たい手で鷲掴みにされたようだった。後悔の念に苛まれる。今更。
「昼も夜も引き続けて。あん時の岩清水さんは、俺から見てもどっかうそ寒いもんがあったよ。正直、恐いとさえ思った」
「なんだって、そんなこと……」
押し潰されたような呻き声を、三井はあげる。
「…うちの部はさ、伝統的に結構成績を残してきたワケよ。それが、岩清水さんの前の代は夏の試合で惨敗した」
逆に嶋田は、話し始めて吹っ切れたかのように情を交えず淡々と言葉を継ぐ。
「惨敗って、どんな」
聞き返すと、目だけを上げて、チラリと笑んだ。
「予選落ち。ここ最近ではついぞなかったことだった」
「…それで…?」
「OBからの突き上げが相当キツくてなー…。岩清水さんのせいじゃないのに、さ。けど、岩清水さんも責任感強い人だから。OBからの文句は俺らにまで流さずに全部一人で受け止めて、かつ、コツコツと努力して試合で一つ一つ結果を出していってた。メチャメチャストレスだったろうと思うぜ」
聞きながら三井は、いかにもありえそうなことだとぼんやりと考えていた。穏やかな風貌の下に強い意志を秘めた人物であることは、短い付き合いでさえ感じていた。
「俺は…何もできなかった。というより、何かできることがあるとすら、考えたこともなかった。岩清水さんがあんまり完璧だったから…。おんぶに抱っこで、何もかも任せっ切りだった。それでもイヤなカオ一つせずに、俺らが気持ちよく引けるように環境を整えてくれて…、で…、夏の大会を目前にして…、これだ」
グッと、自分の右肩を掴む嶋田。
「それで、ジ・エンド。大会では決勝まではなんとか残ったが、岩清水さん抜きで勝てるほど、俺らは強くなかった。精神的に。すんでのところで優勝を逃した時、どれだけあの人に頼り切っていたのかって、思い知らされたよ」
一度息をつき、更に嶋田は続けた。
「だから、岩清水さんがもう引けないって分かった時は、いても立ってもいられなかった。俺達がもうちょっとちゃんとしていれば、そんなことにはならなかったはずなんだ。岩清水さんが何もかも一人で抱え込むようなことにさせなければ……。さすがに岩清水さんも堪えたんだろうな。部に連絡もないまま姿を見せなくなった」
「…………」
口は、挟まない。だがいつの間にか三井は食い入るような眼をして嶋田の話に聞き入っていた。
「それが、決め手だな。それまで見ない振りをしてたけど、そこで腹を括った」
「……?」
唐突な言葉に、分からない、という表情をする三井。
嶋田は眩しいように目を細め、うっすらと笑んだ。自然なものではない、どこかに歪みをはらんだ笑み。
「あの人の支えになろうと決めた。真剣にあの人と向き合おうとね。だから、俺は女と別れて…、岩清水さんに会いに行った」
「…どういう、意味です?」
石でも飲み込んだかのように、腹に重苦しくたまりのある感覚がする。軽々しく踏み込んではならないと。けたたましい、警鐘。
と同時に、何か急き立てられるような感もあり、そちらに追われるようにして三井は問いを重ねていた。
「知ってたんだ、俺は。あの人がゲイで、俺に惚れてるって」
「……っ
目を見開いた。唖然、として。
驚かされ続けているこの対話の中でも、これは群を抜いている。
三井のそんな驚愕の気配とは対照的に、嶋田はどこまでも淡々としていた。
「他の誰もそんなこと気付いちゃなかったろうし、岩清水さん自身も俺に知られてるなんて思ってはいなかっただろうけど。俺には、分かってた。俺は、あの人に惚れられてるって。だからと言って、どうこうするつもりなんかなかったがな。岩清水さんの方もどうする気もなかったみたいだったし…。岩清水さんのことは好きだし尊敬もしてたけど、俺はそういう目で見たことはなかったし…、何も言われてもなかったわけだから、考えないようにしてた」
一息にそこまで話して言葉を切り、息をつく。
「けど、ああいうことになって…事情が、変わった。岩清水さんの支えになりたいと思ったときに…、色々なことを考え合わせても、何より岩清水さんのために何かしたいって気持ちが一等強かったんだ。男同士だとか、そんなんどうでもよくなるぐらいにな」
思いもかけないことを聞かされ続けて、驚きの冷める暇もない。
けれど、どこかにああ…と腑に落ちる気分があった。
岩清水と嶋田とに、何か他とは違う特別さをいつも感じていた。自分には入り込めない何かを。
その正体が、きっと、これなのだ…。
「それ、で…?」
ぎこちなく先を促した三井にふうっと弱々しく笑ってみせる。
「最初は渋ってたが、そこを強引に口説き落とした。…弱ってたん、だよなー…あの人。あの時は、本当にさ…。そこに付け込むみたいにして、俺を好きだと言わせた。最後には…泣かせてまでな」
岩清水が、泣く―――何かそれは、想像の範疇を超えていた。三井の中で岩清水という男は良くも悪くも大人で、泣くなどといった激しい感情の発露は思い浮かべることさえできない。
「しばらくは、俺達は上手くいってた。少なくとも、俺はそう思ってた。岩清水さん、最初は塞ぎ込んでたけど、徐々に俺にくっついて色んなとこに出掛けるようにもなったし。全て元通りとはいかなかったけど、少しずつ元気になっていってくれればいいと…思ってた。けど…」
スゥッと消え入るように言葉を切り、嶋田は自らの思索に沈み込んでいくようだった。
「何が…、あったんです?」
企図したわけではないのかもしれないが、それはひどく思わせ振りなやり方で、三井は焦れる。
それでも、嶋田はすぐには答えなかった。汗をかいたペットボトルを手の中で遊ばせる。
「結局…俺は、何も分かっちゃいなかった」
口重くポツンと呟いて、思い余ったように飲み物の封を切って勢いよくのどに流し込む。
「岩清水さんがどんな思いで俺の隣にいたのか、そこで笑ってるのがどれほど辛かったのか……何も分かってなかった」
握り締められてペシャリとへしゃげ、ペットからはまだ残っている中身が溢れ出て、嶋田の手を濡らした。
「先輩…」
三井が恐る恐る声をかけると、嶋田は目を上げ、力なく笑う。
「すげぇ不遜な考えだよな。人一人の全てを受け止めようだなんてさ。『俺が』あの人を立ち直らせてやるって、そう考えてたんだよな、あの時…」
三井に向けて語りながらも、半ばは自分自身と向き合っているようだった。
それが分かるから、三井は遠慮がちに問い掛ける。
「それの…何がいけなかったっていうんですか?」
答えない嶋田に苛立ち、詰るような口調で畳みかける。
「だって結局は、先輩のおかげで立ち直ったわけでしょう? それなのに、何が」
「結果論で言えば、な」
それ以上言わせたくないと、三井の口を塞ぐかのように嶋田は言った。
「結果的には、確かに俺のしたことが岩清水さんを立ち直らせるきっかけになった。けど、お世辞にもそれは俺のおかげだとかは言えねーよ。そんないいもんじゃない。強いて言うなら…『俺のせい』だ。あの人は立ち直ることができたんじゃない。立ち直らざるを、得なかったんだ…」
「なんですか…それ」
三井は眉をしかめ、嶋田はふーっと大きく息を吐き出し天を仰いだ。
「岩清水さんはさ。全然、俺に頼ってなんかなかった。あの人は自分の力で立ち直ったんだよ。俺を支えにじゃなく、俺を、バネにして、な……」
―――分からない。
「…なんで、そうなるんですか。訳わかんないですよ、全然」
話の見えてこないことにいい加減イライラとして、キリッと奥歯を噛み鳴らす。
「簡単なことさ。俺が、悪い。全面的に、俺が悪い。いい気んなって、一段高いところから岩清水さんを見下してた…そういう、ことだ」
「見下して…って」
「そうでなきゃ、出てくるわけないだろ。代わりになるなんてセリフ。そんな簡単に、できるわけないだろ。岩清水さんの…人一人が長年かけて作り上げてきた射を他人が受け継ぐなんて…さ」
返す言葉もなく、三井はしばらくじっと黙っていた。その内に、嶋田が再び口を開く。
「三井。お前、弓始めたのいつからだ?」
また、脈絡のない話の持ち出しをした嶋田に三井は咄嗟に顎を引いて不審の念を露わにした。
「高校からですけど…」
それがどうした? と言外に含まれた疑心に呼応して嶋田が軽く苦笑う。
「そっか。俺は、大学入ってからだ」
「……」
何が、言いたいのか。まさか初心者で始めて、主将を務めるまでに上達したのだと自慢したいわけでもあるまい。
「あの人…岩清水さんは、小学生の頃からだってよ」
何も言葉にこそしなかったが、三井は目を見張った。
「まあ、そんな十になるやならずやから引き込んでたってわけじゃあなかったみたいだけどな。弓は成長期の身体には負担になるから。でも……」
掻き消えた、言葉の残りが三井には手に取るように分かる気がした。
そんな幼い頃から、岩清水は弓に親しんでいた。それほどに、彼にとって弓とは生の一部だった。それを……。
「岩清水さんは、俺に何も言わなかったよ。恨み言は、何一つ。最後まで。ただ…、終わりにしようって言っただけだった、あの人は」
「終わり、ですか…?」
「そうだ。自分はもう大丈夫だからって言って。だから、全てを白紙に戻そうって、さ…。最後の時でさえあの人は笑っててくれたけど。だけどそうやって別れを切り出されて、初めて俺は気付いたんだ。自分の独り善がりにな。ガキだったよ、俺は。ほんと…どうしようもなく青臭いガキだった」
一息に言って、深い溜め息を吐き出す。
それきり、長い沈黙が落ちた。
同意は論外、さりとて否定するだけの材料を持つでもなく、三井にはかける言葉など一つもなかった。
「…訊いても、いいですか」
更に嶋田を追い詰めるだろう言葉を除いては。言えば、傷つける。それが分かっていてなお、言わずにはいられなかった言葉を除いては、何も……。
「先輩は…あの人のことを、好きだったんですか? そういう意味で…少しでも」
ずっと、そこのところが気にかかって仕方なかった。
嶋田の話を聞く限りでは、岩清水はどうか知らないが、嶋田の方は好きで付き合い始めたのだとは到底言えない。
誰が悪いとかなんとか、そんなことなんかよりも一番大切なのはそれなのではないのか。
嶋田は即答しなかった。じっとむっつりと黙り込んで、それからようやく小さく呟く。
「さあ、な」
けれど口にするどんな言葉より、即答できなかったという、その事実こそが如実に正確に嶋田の心中を表している
ように、三井は思う。
言い淀むことなどないはずだ。何も。好きだったのであれば。
「…最低だ、あんた
何ら憚ることなく、唸るような声でそう言い切ったこの後輩に、嶋田は思わず小さく笑みを零していた。琴線に触れたのは、その潔癖さゆえにか…。
「こんなん、先輩に向かって言うことじゃないでしょうけど…最低ですよ、それ」
三井はその後やや声調を抑えて言い直し、嶋田は声こそ立てなかったが、腹から込み上げてくる微笑に肩を揺らし続ける。
「…同感だよ、俺も」
言いながら、嶋田は片手を挙げて追いやるような仕種をした。もう行け、と。
対話の打ち切りを示すそれを三井は軽く唇を噛んで受け入れ、会釈一つを残して未練がらず潔く踵を返した。
独りを望む嶋田の心情が、ひしひしと伝わってきていた。
「頼む、三井。あの人を傷つけないでやって欲しい……」
その背中をひそやかに追った、絞り出すような言葉。
振り返ってはならないのだと、分かっていた。
言葉の刃を振りかざしたのは自分だが、敢えて、三井は、思う。
……傷ついているのだ。嶋田も、また。

道場へと戻ってくると、大分人も去り疎らになった射場の隅で岩清水が2、3人と談笑していた。
一度はそこから目を逸らし、だが、思い直して三井はキッとそちらへ目を据えた。
「岩清水さん」
くっきりとした発音で名を呼ばれ、岩清水は驚いたように見返った。
「三井……」
あるいは驚きは、声の主を聞き分けたからこそのものであっただろうか。
瞬きもしない三井の強い凝視に戸惑いを見せ、岩清水は眼差しを三井の後方へとずらした。
「嶋田はどうしたんだ?」
二人連れ立って抜け出していったのをどうやら目に止めていたらしい。その片割れの姿が見えないことを質してくる。
「…岩清水さん。話がしたいんですが、少し、いいでしょうか?」
岩清水の問いかけに答えを返すことなく、チラとも笑わない硬い表情で三井は言った。応じる岩清水も、つられたように徐々に面持ちを真剣なそれに変えてゆく。
「嫌とは言えない雰囲気だな…。まあ、いいぜ。ここで話すのか?」
それでも岩清水は、彼らしい皮肉げな笑みを少し、唇に浮かべた。
「ここでは、ちょっと…」
三井は、減ったとはいえ未だ10名近くの留まる道場内を見渡して言葉少なに頭を振り、外へと岩清水を促した。
「お前の方から、声をかけてくるとは思わなかったな」
嶋田の存在も考え合わせて適当な場所に思いを巡らす三井の後について歩きながら、ポツッと岩清水は呟く。
三井はピタリと足を止め、クルッと振り返って目を合わせた。自然、岩清水の足も止まる道理。
無言で向かい合う二人の間をサアーッと風が吹き抜ける。
三井はふと、俯いた。
「…迷惑でしたか?」
「え? いや別に迷惑ってそんなことはないが…」
語尾を曖昧に窄ませて言葉を探し、一つ頷いて続ける。
「うん、ただ、驚いた。お前には嫌われてるもんだと思ってたからな」
「嫌ってなんか
岩清水の口から出た思いがけない文句に、三井は自分でも予想しなかったほどの強い反応を示していた。
岩清水も、呆気に取られたようにポカンと三井の顔を見詰めている。
互いに見合ったしばしの内に、三井はある覚悟をつけてギュッと拳を握り固めた。
「この間は、どうもすみませんでした。悪かったと、思っています」
三井が切り出すと、岩清水は何とも言い難い複雑な表情を浮かべてみせた。
「…別に、謝ることはないだろ。お前は間違ってないさ…」
まるで、全てに許しを与えるかのような物言い。
けれども三井自身はそれを、拒絶としか感じられない。許容に、とてもよく似てはいても。
とても優しいカオをして。踏み込むことを決して許さない、拒絶だ。
「…嘘、でしょう。あんたが、俺に自分を重ねてたなんて俺には思えない」
慎重に、けれど決して引かない構えで見詰めた先で、岩清水は微かに目を見張り、次いでちょっと笑ってみせた。
「この間と言うこと違ってんじゃん。俺の代わりじゃないって、そう言ったのはお前の方じゃなかったか?」
「はぐらかさないで下さい」
唇を噛み締め、声を高めたくなる思いを必死に抑える。何度か深い呼吸を繰り返し、昂ぶりかけた気を落ち着かせる。
「…あんたが自分の代わりを本気で探していたんだったら、俺じゃなくたって見込みのあるヤツなんかいくらでもいたはずだ。それこそ、嶋田先輩を拒む必要がない。先輩はまさにあんたの代わりになろうとしてたんだから」
スッと目を細め、厳しさの漂う表情を浮かび上げる。
「嶋田は…お前に一体何を言った?」
いつでも、こんな時でも、嶋田の名に鮮やかな反応を見せる男。幾度となく目にした事実ではあるが、それでも割り切れずに三井は歪んだ笑みを口許に刻み込む。
「あんたって、人の話を聞かないですよね…」
自嘲げに三井は吐息混じりに呟いた。
「はあ?」
一方の岩清水は、藪から棒の糾弾に目を瞬いた。
「何のことだ?」
「……人のっていうか、俺の、ですけど。いっつもそうだ。自分ばっかり言いたいこと言って、あんた俺の言うことなんか聞こうともしないでしょう」
「そう…か?」
身に覚えがないといった態で首を捻る岩清水。その仕種には少しも悪びれたところがない。
「自覚、ないんですよね。自覚がないってことが、つまりそういうことです。あんたにとっては、俺が何をどう思ってるかなんて、何の興味もないことなんだ」
尖った剣先を突きつけてゆくかのような、鋭い弾劾。けれどそれも当人に意識がなくてはいつの間にか切っ先を鈍らされてしまうようだった。
不思議そうに見詰めてくる眼差しに、コホンと空咳で場を凌ぐ。
「ムカつきますよ、あんたのそーゆートコ。それがなんでだか…、あんた分かりますか?」
「さあ……」
考える素振りさえ見せない即答。
呆れて三井は苦く笑うより他になかった。
やはり、三井の話を聞いちゃいない。耳に入れてはいても、その意味するところを考えることはない。その行き付く先がどこなのか、まるで思いを馳せはしないのだ。
「ムカつきますよ、ホント…。俺の話を聞こうとしないってことは、俺なんか眼中にないってことでしょ。全然、対等な立場に立ててないってことでしょ。それが、ムカつくんですよ」
「…お前、俺と対等になりたいの? なんで?」
何も考えてはいないくせ、核心を最短距離で突いてくる。
ヒュッと肺深く息を引き込んで、一瞬、三井は動きを止めた。
「……アンタ、嶋田先輩と付き合ってたって、本当ですか?」
前振りも何もない三井の切り出しに岩清水は目を丸くする。
「また…ヘビーな話題を持ち出すな…。いきなりそこ突っ込んでくるか、フツー?」
問われたことに答えないままはぐらかしたことに、気付かないのか気にしてもいないのか。岩清水は表情をクルクルとよく変える。
「……訊いてるんですけど」
三井はニコリとも応じることはなく、岩清水は肩を竦めた。
「嶋田がそう言ったんなら、そうなんだろ」
誠実とはいい難いあっけらかんとした返答に、三井はあからさまに顔をしかめた。
「…なんなんですか、それって。自分のことでしょう。嶋田先輩がどうとかじゃなく、自分の言葉で何か言うことはないんですか?」
「って言ってもなあ…。あの状態を、果たして付き合ってたって表現してもいいものかどうか、俺には判断し兼ねるし。だから、嶋田次第。アイツがそう言うんなら、そういうことにしとくさ」
飽くまでも主体的な想いを話そうとはしない岩清水の態度。苛立ちはいや増すというもの。
知らず、睨むような目付きをしていたのか、岩清水はヒョイと三井の方へ視線を廻らすなり肩肘の力を抜くようにふっと鼻先で笑みを閃かせた。
「…俺は、好きだったけどな、マジで」
濁りのない、澄んだ笑みだった。
思わず声を飲み込んだ三井の前で、目を瞑りもう一度ゆっくりと言葉にする。
「好きだった。惚れてたよ、心底な」
自分から訊いたことなのに、こうしてはっきりと宣告されてしまうと、どう応じてよいか分からなくなる。
「そう…ですか」
ただ、握り締めた拳に力を込めるだけ。
それへ岩清水はチラリと視線を走らせる。冷ややかというのではないが、どこか冷めた眼差しだった。
「別に、俺はどう思われようと今更言い訳する気もないけどな…。だけどお前。嶋田に対して妙な隔意持ったりすんなよ。あいつは…違うんだから」
「…違う? 違うって…何が」
岩清水の真意が掴めずに、三井は胡乱に眉の根を寄せた。
対する岩清水は微かに逡巡を垣間見せる。
「だから。あいつは、俺とは違うってことだ。俺のことはいい。避けようが無視しようがお前の好きにすればいいさ。だが…」
「ちょっと待てよ 何だよそれ
喋り始めたかと思えばその内容は突拍子もないもので、三井は慌ててストップをかける。
止められた岩清水の方は、なんだよ、と不服げに唇を尖らせた。
「なんだよじゃないですよ…。避けるだの無視するだの…一体どこからそんな話が出てくるんですか」
わめく寸前の声調で訴えかければ、岩清水はといえば彼の方こそ余程納得のいかない様子で目を瞬いた。
「どこって…。お前、嶋田から聞いたんだろ? だから俺を呼び出したんじゃないのか?」
その言い様には「何を」という目的語が抜けている。それはおそらく故意のものなのであろうが、そのために意図するところが曖昧になっていることは否めなかった。
「先輩と話したってのはそうですけど…、あんたと話がしたいって言ったのは、それとは別件です。全く関係がないわけじゃないけど…」
しばしマジマジと見詰め上げ、岩清水は一つ溜め息をついて先を促した。
「なら、お前の話ってのは何なんだよ」
「俺は…」
文句は言うくせ、いざ尋ねれば躊躇する。らしくない三井の有様だった。
「俺は、ただ…」
「ただ?」
「…さっきから、言ってるでしょう。俺は、あんたと対等な立場に立ちたいんです」
「俺もさっきから訊いてる。それは、なんでだ?」
また、口篭もる。
「じゃあ訊きますけど、あんたウチの道場に何をしに来てるんですか」
そしてヤケになったように唐突な反問に、岩清水は瞬きして沈黙した。
「…どこが、『じゃあ』なんだ?」
「ンなことどうだっていいでしょうっ。答えて下さい。あんた何が目的で顔を出してんですか」
一切の表情を消し、静かに口を開く。
「それ、聞いて…どうするよ? 俺に、何を言わせたい?」
「言えないんですか。なら俺が言いましょうか」
逆に三井は強い、食らいつかんがばかりの強い眼差し。
「あんたは、俺をダシにしてるんだ… 俺を見るなんて口実だ。本当は、違うんでしょう。本当は…っ」
「悪かった」
皆まで言わせず、遮るように岩清水は口にした。
「お前が迷惑だと思うのなら、もう、来ない。それで、許せ…。嫌な思いをさせて悪かった」
言うなり、ためらわずに岩清水は踵を返していこうとする。
「待てよっ
大声で叫んで肩を掴み、三井は無理矢理彼を振り返らせた。
「いい加減にしろよ、アンタッ 誰がそんなこと言ってるよ!? 来るななんて俺は言ってないだろっ。俺は…」
「嫌だ」
またしても、岩清水は最後まで言わせず口を挟む。怯む色なく、きっぱりと言い切る。
「な…んだよ…。何…」
「嫌だ。お前の言う通りになんかしない。お前の言うことなんか聞きたくない。…そういうヤツなんだろ、俺って。お前にとっては」
「開き直んなよっ 俺は…っ、俺が言いたいのは…っ」
噛み合わない。まるっきり、折り合うところのない会話。
岩清水の態度には歩み寄ろうとする努力の跡さえ見られなくて、頭に血が上る。
上手くものが考えられない。
ただ込み上げる、激しい衝動。
それに突き動かされるようにして、掴み上げた肩を更に引き寄せ、三井は岩清水の唇を塞いだ。
己の唇を、使って。

「…………」
互いの唇の離れた後も、岩清水は無言だった。
表情も、触れ合った最初にこそ少し目を見開いたものの、その後はされるがまま特に抵抗するでもなく。
気詰まりな沈黙に、先に音を上げたのは三井の方。
「…ッ。何か、言うことないのかよ…っ」
舌を鳴らし、相手を詰る。
「何のつもりだ」
返した岩清水の声色は、全くの平調子だった。求められたから、という義務感だけで発したような、熱のない口調だった。
「知らねえよっ
ヤケクソ気味に、ザッと地面を蹴り付ける。
岩清水はそうか、と応じ、間を置いて尋ねる。
「…気は済んだのか?」
余計イラつきの度を増していることなど聞くまでもなく一目瞭然であろうに、しれりとそんなことを言ってくる。
「……っ
もう一度痛烈に舌打ちをして三井は男を睨んだ。
「まじムカつく…」
鼻息と共に、荒く、短く吐き捨てる。
「何より、自分にムカついてしょうがないですよ。なんで、俺ばっかり…っ
どこか遠いところを見詰め、重ねる言葉がかすりもしないような岩清水の態度が痛くて、三井は強く目を瞑る。
「こんなことなら、アンタに会わなけりゃよかった…。こんな厄介なんだったら、会わない方がマシだった
心中は渦巻く感情に満ち溢れ、ロクな考えが浮かんでこない。
言葉が途切れて余程経ち。
ふーっと細く深く息を吐き出し、岩清水が不意と口を開いた。
「…悪かったな」
ポツンと一言だけ、だが、それは先程までとは明らかに違った、胸の切なくなるような労りの情が感じられた。
「…お前には、悪いことしたと思ってる。俺も、嶋田ので相当懲りたつもりだったんだがな……」
ほぅっと自嘲するように吐息をつき、グシャグシャと髪をかき上げる。
「どうせだから、きっちりカタ、つけてやるよ。だから、ちょっとだけ俺にも物を言わせてくれ」
言葉だけ見れば依頼だが、否やを容れるつもりなどないらしく、岩清水はそのまま言葉をつなげた。
「知っての通り、俺は、ゲイだ。同性を恋愛対象にしてる」
嶋田に聞いていたから分かってはいたつもりだが、改めてこうして聞かされると身に染みるものがあって、知らず三井は目を閉じた。
「ただ、言い訳させてもらうなら…、節度は守ってるつもりだったんだ、これでも。ノンケを相手にするつもりなんかサラサラなかった」
「ノンケって…?」
耳慣れぬ言葉に、三井が小さな声で反応する。
岩清水は微笑した。
「ヘテロセクシャル、所謂、ノーマルってこと」
三井が頷いて了解の意を示し、岩清水は話を続ける。
「嶋田に惚れたのは、何て言うか、俺にとっちゃ予定外の例外で…」
言葉を探して、しきりと髪の毛をかき回す。
「けどまあアイツは根っからの女好きだし、ほっといたんだよ。どうせ進展ないから大したことないと思って、タカくくって。俺の中では、短い間の綺麗な想い出になる予定だったんだ」
肩を竦めて一度、口を閉ざす。何らかの反応を期待したのか。
三井は黙って先を待っていた。
「…そのはずが、何をトチ狂ったんだかアイツが…」
言いかけて、はあと溜め息をつく。
「いや、まあ、あいつのせいにしたらいけないんだが。そもそもは俺が悪いんだからな」
自分へと確認するように何度か首を頷かせる岩清水。
「けど、やっぱり…分かっちゃいたことなんだが、あんまりいい風にはならなくて。だから、それっきりにするつもりだったんだよ…。ほんとに…」
零れた笑みは、苦いような甘いような、複雑な色合いだった。
それはそのまま嶋田への消えぬ想いを見せ付けられているようで、見ていられずに三井は微妙に視線を落とす。
「だからさ…。だから、まあ…今のこの状況は、言ってみれば予定外その2なわけだ」
「…どんなんだよ。この状況って…どんなのか、言ってみろよ」
目を合わせることさえできないくせに、口振りばかりは挑発的な。
訊かなくても、分かっていたが。それでも。
きちんと言葉にしておかないと、ここから先に進めない…。一歩も、前には進めない。
それは三井自身もそうだし、そして、岩清水にとっても、きっと。
理性では解っていることを、情の方にも納得させるための、いわばこれは儀式なのだ。
だが、岩清水は眉をひそめて答えを返してこなかった。
「言えよ…っ」
岩清水は、疲れたように肩を落とし、力なく頭を振った。
「そこまで俺に言わせるのかよ。分かってんだろ? 言わなくても…」
「逃げるのか」
なんとか穏便にかわそうとするのへ、追い縋る。
「あんたそうやって、先輩から逃げたんだろう。また、逃げんのかよ…っ
追い詰める。
苦しげに岩清水は顔を背けた。
「…悪いか。逃げたら、悪いか? 誰が好き好んで傷つきたいと思うかよ。逃げて傷つかずに済むんなら、そうしたいに決まってんだろ…っ」
「…それで、アンタ楽になれたのか。逃げて、何か解決したか…!?
ついに岩清水は固く目を瞑ってしまって、何らの応答もしなかった。
三井も唇を噛み締める。
傷つけたいわけではなかった。決して。
岩清水のためを思えばこそ…と言い切ってしまえば嘘になる。第一は、何より自分自身がケリをつけてしまいたかったから。
けれども、それでも、岩清水に対してよかれと思ったのもまた真実なのだ。

「…真弓さん」
かけられた声は、完全に不意を突いていた。二人して、驚いて同時に顧みる。
「嶋田…」
零れ落ちるような呟きに、嶋田は小さく笑みを返す。
「口は出さないつもりだったんですけどね…」
言いながらゆっくりと数歩の距離を詰めてくる嶋田の表情は、曰く言い難い苦笑じみたものだった。
岩清水に背を向け、三井の真正面に相対する位置で立ち止まる。
「…傷つけんなって言ったろうが」
軽く顎をしゃくって咎めるも、本気ではない証拠に口許は和らいでいる。
対照的に三井は厳しく唇を引き結び、黙ったまま会釈してその場を立ち去る素振りを見せた。
「待てよ」
それを嶋田があっさりと呼び止める。
「どこ行くつもりだ、オマエは」
振り返った三井は露骨に嫌な顔をして、年嵩の男を睨めつける。
「どこだっていいでしょう。真打ち登場なら俺はもうお役御免でしょう?」
聞いて嶋田は天を仰ぎ、ほっと溜め息を洩らした。
「そんな気はしてたが…、俺は、大分お前を買い被ってたみたいだな」
嘆かわしげな物言いに、剣呑に眼を光らせる。
「…何が、言いたいんです」
声音は、地を這うように低く落ちた。
「俺が訊きてぇよ。何の話だ、真打ちってのはよ…」
返す嶋田の言い分はぼやきに近い。
そのまま、一度も顔を見ようとしないまま、彼は背後の人の名を呼んだ。
「真弓さん……」
ビクリとして、大きく身を震わせる。
見開いた目で、振り返らない男の後ろ姿を凝視する。
「俺は、あなたを傷つけない。絶対に」
それは静かな宣告。異論を挟む余地を許さない。
「…………」
岩清水は、言葉を失くしたように立ち尽くす。
「そして…不本意ながら、このバカと同意見だったりします。逃げないで、下さい。あなたを傷つける結果にはなりません。俺が、保証します。だから…、逃げないで下さい」
嶋田は、静かに、ただ静かに、言葉を紡いだ。
「…なんで…」
力のない震える声で呟き、耐え兼ねたように俯く。
「どうなるっていうんだよ、今更…。どうなるもんでもないだろ。わざわざ言う必要、ないだろ……」
嶋田は少し間を置いた。
「俺が、信じられませんか」
「そういう言い方って卑怯だろ
間髪容れず、悲鳴のように叫びが迸る。
「…すみません」
謝りはしたが、それだけ。前言を撤回しようとは、嶋田はしなかった。
やがて岩清水が根負けしたように泣き笑いのような半端な笑顔を浮かべる。
「タチ悪ぃの…。お前、俺が逆らえないの知ってるだろ……」
「…そうなんですか?」
岩清水には見えなくとも、三井の目には嶋田の飄々とした表情が映っている。しかしそこからは本気か否か読み取ることはできなかった。
岩清水は、深々と諦めの吐息をつく。
「わぁったよ…。そんなに茶番が見たけりゃ付き合ってやるよ」
チッと舌打ちは、せめてもの意趣返しだったのか。けれどあまりにもささやかなそれでは、嶋田の厚い面の皮にはキズひとつつけることもできそうにはない。
そして岩清水は三井、と名を呼び付けた。
予期しておらず、ビクッと大仰に体が反応する。
間で立ちはだかる格好になっていた嶋田が、弁えてスッと二、三歩身を退かせた。
隔てるものがなくなり、視線と視線がまともにぶつかり合う。
「…いい加減、分かり切ってると思うが……」
何度もためらい、言葉を探し、最終的に岩清水が口にしたのはシンプルな一言だった。
「…お前が、好きだ」
分かり切っているだろうという岩清水の前置きにもかかわらず、返った反応はその予測を裏切るものだった。
「え……?」
三井は呆然と、呼吸さえも忘れているのではないかと思えるほどに呆然と、完全にその動きを止めたのだ。
「え…っ、だって先輩は…。アンタ、先輩のことが好きだったんじゃあないんですか……?」
動揺を完全にさらけ出した格好で、岩清水と嶋田の顔とを忙しなく交互に見比べる。
「それは、そうだが…」
ただ事実のみを簡単に首肯した岩清水に対し、三井の疑問に答えたのは嶋田だ。
「『好きだった』……過去形だ」
低い、感情の窺えない声でそう呟く。
「けど…っ」
納得できない思いで食い下がる。
特別なのは、嶋田だ。岩清水にとって、何より嶋田の存在が特別なのだ。
そこには自分の入り込む隙間などありはしない。
三井はそう思う。
腑に落ちない。もやもやとした、形のないものが身の内でとぐろを巻く。
はあ、と岩清水が溜め息をついた。
「ンな悩むなよ…。俺は別に答えを求めてるわけじゃない。はっきりさせろって言うから…そうしただけだ。何も期待なんか…」
「答えは?」
強引に、かぶせるように嶋田が言葉を割り込ませる。
「嶋田っ? お前、何言ってんだよ」
驚きを露わにして、岩清水が焦って嶋田を見やる。
そして三井が見ているのもまた、岩清水ではなく嶋田だった。何か言っている岩清水のことなど見向きもせず。
「…もらえるんですか。俺が欲しいと言えば、俺のものになるんですか…!?
「それは、お前次第だろ」
「先輩はそれでいいんですか…!?
三井がすかさず切り込んだ時、それまで淡々と変わらぬ表情で語っていた嶋田が、ふっと揺らぎを見せた。
「……俺が決めることじゃない。真弓さんの望むこと…それが、全てだ」
三井はその眼をじっと見詰めた。面に表れることのない心の奥底まで覗き込もうとするかのように。
微かに眇めはしたものの、嶋田もその眼差しを避けるようなことはしなかった。凪いだ湖を思わせる瞳で静かに受け止めていた。
「…本気ですか?」
やがて、三井が尋ねたのは岩清水に向けてだった。
「えっ?」
「あんたが言ったの。俺を好きだって…本気ですか?」
最初聞き返した岩清水は、質問の意図を了解すると共にスッと表情を整えた。
「悪いが本気だよ。嘘ついてどうすんだ、こんなことで…」
傷つくまいと、ガードを張り巡らす無表情。精一杯の虚勢を見抜いて三井は目を細めた。
「そう。……俺も、ですよ」
ごくさり気なく、告げられたセリフ。
「……何が」
振りでなく、本当に意味が理解できなかった様子で、いかにも胡散臭げに、不信感も露わに眉根を寄せた。
「何って…。俺も、あんたが好きだって言ってるんです」
「……はあっ? お前、馬っ鹿じゃねえの!?
それは、深い意味などなくただ口走ってしまっただけでしかないのだろうが、さすがに愉快ではない。
「馬鹿ってなんですか なんで好きだって言って馬鹿だなんて言われなきゃならないんです」
「だ、だって…」
言い返す三井の剣幕に怯み、救いを求めて、岩清水が思わず視線を送った先は嶋田のところ。
しかし、向けられた眼差しに対して嶋田はゆっくりと首を振ってみせた。
岩清水が目を向けるべきは彼ではないし、それに応えるべきなのもまた、自分ではないと。
頼みの綱に拒まれて、岩清水は一層途方に暮れた顔をする。
それでも、少し間を置いてから思い切ったように三井の方へと顔向けた。
途端、待ち受けていた視線に出くわす。一度合わせてしまえば、離すことなどできない。
「…何です」
ただただ、見詰め合っていると、不機嫌の表れた声で三井が言う。
「何がなんだか……」
岩清水が思わず洩らす。どこか宙を漂うように頼りないそれは、紛れもなく本心であるのだろう。
「どーもこーもないでしょ。もういいから、考えんなよ…」
言って、自然な流れで唇が重ね合わされる。一旦離れては、二度、三度と繰り返し。

完全に二人の世界な状況に、交わされる口付けが五度を数えるに至って堪り兼ねて嶋田が大袈裟に音を立てて咳払いした。
ギクッと肩口を震わせて、岩清水が飛び離れて赤面した。三井はチッと舌を打つ。分かっていてやっていたという、確信犯的態度だ。
「お前な…」
思わず嶋田が肩を落とす。
「いいところだったのに」
それでも懲りずに口を尖らせる三井に苦笑する。
「口説き落とすまでは待ってやったんだから、我慢しろ」
言って嶋田は狼狽する岩清水には余程優しい笑みを与え、慈しむように目を細めた。
「真弓さん…」
母親とはぐれてしまった迷子のような情けないカオをして、おずおずと上目遣いに嶋田を見上げる。嶋田はより一層微笑を深めた。
「あなたが幸せであることが、何よりの俺の願いです」
「嶋田……」
決して、下の名を呼ぼうとはしない岩清水。嶋田の眼にふっと寂しげな影が差した。
それを振り切るように馬鹿に明るい声をあげる。
「いい趣味とは思えませんが…、こんなんでよろしければ主将権限で熨斗つけて差し上げますけど、いりますか、岩清水さん?」
聞いていた三井が、俺は物じゃないんですけど、と呆れ顔に呟く。けれどもその表情の奥では、嶋田の問いが決断を促すものであるのを察して、緊張を殺し得ずにいた。
岩清水は、瞳に様々な想いを過らせた。
交錯する眼差しの交流は二人だけの空間を作り上げ、三井は叫んで割って入りたい思いがするのをじっと耐えた。
それは、儀式。一つの恋を終えるために、どうしても必要なのだと、分かっていた。
「…もらう」
やがて岩清水が声を掠れさせながらもはっきりと答えを出した時。それこそが、燻り続けた長い想いに決着をつけた瞬間だった。きっと。
岩清水にとっても。……嶋田に、とっても。
嶋田は、声に出しては何の反応もしなかった。ただ、より、笑みに深みを増しただけだった。
代わりのように動いたのは、三井。横合いから腕を伸ばして岩清水の肩を抱く。あたかも所有権を主張するかのように。
分かりやすい後輩の行動に、嶋田は微かにのどの奥を震わせた。
だから、敢えて彼を無視して岩清水へと語りかける。
「何かご不満があれば遠慮なく仰って下さいね。返品は無期限で受け付けますから」
虫も殺さないような晴れやかな満面笑顔のくせに、物言いは歯に衣を着せない。
気が抜けたように、岩清水もふっと軽い苦笑を浮かべた。
「それは、不良品だった場合の取り替えもきくのか?」
軽口で応じてきた岩清水に対し、嶋田の眼に刹那何かの光が駆け抜けた。
えっ、と思い、三井が正体を見極めようとする間もなく、嶋田はそれを意志の力で捻じ伏せたが。
岩清水は、果たして気がついただろうか……。
「…あなたのためなら、俺の胸はいつでも空けられますから。存分にどうぞ」
嶋田はおどけて両の腕を広げる。
岩清水は自分に向けて差し出されたその腕と、嶋田の顔とを何度か見比べて、最後に三井に視線を移した。
「…だとさ」
その様子はもうすっかりといつもの調子。完全に面白がってニヤニヤと口許を弛めている。
「俺に何言えってんですか…」
しょうもないところで話を振られて、三井は渋面を作った。
「さぁ?」
自分が振ったくせに、岩清水はケロリとして邪気のない仕種で肩を竦める。
「返品なんかさせませんから、ご心配なく」
不服げな面持ちながら、発言は不遜そのもの。
ヒュゥッと嶋田が口笛を鳴らした。
「おーお。言う言う…。いいねえ、若いってのは」
「いいでしょう?」
はやされて照れるでもなく、却って三井は岩清水を抱き込む手に力を強める。
「う、わ…ちょっ、三井…っ」
引き寄せられた岩清水からは些か上擦った声があがり、抗って手足をばたつかせる。
意外に思ってヒョイと顔を覗き込み、赤くなっているのに気付いて、三井は眉の根を開く。
「三井ー。顔がニヤけてる、ニヤけてる…」
嶋田の指摘もどこ吹く風、更に体を密着させる。
「…先輩、そろそろ遠慮してもらえません?」
臆面もなく見せ付けるかのごとき行為に加え、目だけをチラリと向けられてはさすがの嶋田も閉口したとみえ、苦笑いでやれやれと軽く髪をかき上げた。
「分ーかった分ーかった、邪魔者は退散してやるよ」
「し…嶋田
肩を竦めて去っていこうとした彼を慌てて呼び止める。
岩清水から声のかかったことに少し戸惑う風を見せながら、なんなくスイと振り返る。
「あ…っと、えっと…サンキュ、な」
どもりながら必死の面持ちで礼の言葉を聞かされて、嶋田はいいえぇと外国人のように大きなジェスチャーでもって返してくる。
「岩清水さんのためならたとえ火の中水の中…。いつでも何なりとご用命下さい」
そう、いかにも冗談めかした台詞回しにクスリと破顔し、岩清水はサラリと告げた。
「サンキュ。お前やっぱりいい男だよ」
不意打ちの発言に、面食らって嶋田は顎をぐっと引く。が、そこは一筋縄ではいかないこの男のこと、すぐに立ち直り、ムッと目を光らせる三井を視界の端に捉えてニヤリと唇の端を捻り上げた彼らしい笑みを、してみせる
「そりゃどうも。岩清水さんの趣味で褒められて、果たして本当に喜ばしいのかどうか、複雑な気もしますけどねえ。…ま、そこで坊やがコワーイ顔して睨んでるんで俺はそろそろお暇しますよ。後はごゆっくり…。ああでも、骨抜きにするのは、ホドホドにしといて下さいねー。それ、いちおウチの大前(おおまえ)なんで」

「…へえ」
ハッとして息を呑む三井と、納得したように軽く頷く岩清水とは、見事な好対照を演じている。
「せ…ん輩、それって…」
らしくなく狼狽を露わにするこの後輩に向け、嶋田はなお高飛車に続けた。
「その代わり、こけたりしたら後1年はお前使わないからな」
「そりゃひでぇな。1年後つったらモロ主力じゃん」
岩清水が顎を撫でながらあっけらかんとのんきな感想を呟く。
「っていうか、それって脅し……」
それ以前に1年後には先輩卒業してるじゃん…とかなんとか愚痴りながらげんなりと項垂れる三井にはお構いなしで、主将のお達しは更に続く。
「ノルマは最低でも18/20。お前羽分けなんか出しやがったら即落ちするからな」
「9割か。まあ妥当な線だろうな」
相当高いと思われるハードル設定にも動じることなくふんふんと簡単に追認を与える岩清水。
二人呼吸を合わせてかかられたのでは三井に対抗する術はない。
けれど。
「じゃあ…」
口を開いた三井の視線は真っ直ぐに見返していた。
「二十射(かい)の方向で」
一拍ぐっと間を置いて、嶋田は岩清水とチラと目を見交わす。そしてニヤリと唇を捻り上げた。
「大きく出たな」
「そうでもないと思いますけど」
サラリといなすと本格的に笑い出す。
「オッケ。なら二〇本計算させてもらおうじゃん」
「先輩こそ、通しを外すような醜態はしないで下さいよ」
抜け抜けと言ってのける生意気さに、今度は苦笑。
「言う…。なら、競争するか?」
僅か目を眇める。一歩も譲るつもりはない。
「…望むところです」
手の内は、明かさない。
勝負は始まったばかりだ。

 END



NOVEL1

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